自分のペースで育っていける…そんな子どもたちの居場所づくりから活動スタート。 教育支援協会 南関東 理事長・岩間文孝さん#1
子どもたちに寄り添う仕事をしたい…と考えている人も多いのでは。今回は、放課後児童支援や不登校・引きこもりの支援など、子どもたちをとりまくさまざまな環境に合わせたサポート活動をしているNPO法人 教育支援協会 南関東の理事長、岩間文孝さんにお話しを伺います。
前編では、岩間さんが子どもたちに関わるようになったきっかけ、教員を目指したものの「教師ではダメだ!」と思わせた出来事、活動の基盤を渋谷から横浜に移したいきさつなどについて、お話しいただきました。
お話しを伺ったのは…
NPO法人 教育支援協会南関東
理事長 岩間文孝さん
日本大学卒業後、放課後や週末などに子どもたちの居場所をつくったり体験活動を支援する『渋谷ファンイン』に参加。その後、若者世代まで対象を広げたNPO法人『ピアサポートネットしぶや』を立ち上げる。2013年より活動の場を横浜に移し、フリースクールを運営。子どもの学びを支援する『教育支援協会南関東』に在籍し、併せてフリースクールなどの民間教育施設が参画する『横浜子ども支援協議会』の活動を行う。2016年より現職に就任。
子どもたちを応援できる大人になりたくて、『渋谷ファンイン』に参加
――岩間さんが子どもたちと関わるようになったのは、いつからですか?
1997年に男子中学生の酒鬼薔薇聖斗が「神戸連続児童殺傷事件」を起こした翌年からですね。彼の居場所はおばあちゃんのところだったそうですが、そこがなくなってしまった。もし彼の居場所が他にもあれば、あの事件は起こらなかったんじゃないかな…と思ったんです。
――あの事件はとてもセンセーショナルでしたね。
あのころは、「普通」って思われている子どもたちが、凶悪な事件を起こした時期でした。僕たち大人は問題児か優等生には関わることが多いけど、それ以外の子どもたちは多くの大人たちが関わらないまま大人になってしまう。でも実は、「それ以外」の子どもたちにもたくさんの大人が関わって育つことができる居場所が必要なんじゃないか、という想いがありました。
――その居場所が『渋谷ファンイン』なんですね?
そうです。元校長先生が中心になって、地域の方と元PTAの方と一緒につくった組織です。僕はまだ20代だったので、子どもたちと関わる役目を担当していました。
――岩間さんが参加したのはどんないきさつで?
当時、大学に通いながら高校でバレーボールチームのコーチをしていて、そのチームの顧問のご主人がPTA会長だったんです。そのご主人から「これからこういう活動をするんだけれど、手伝ってくれないか」って誘われたのがきっかけです。当時は教員を目指していたので、これは「いい経験になる」と思って参加しました。
――教員を目指していたんですね!?
そうです。でも教員になって子どもと勉強をするイメージはまったく描けなくて(笑)。バレーボールの顧問になって全国で試合をしながら大学時代の同期たちと会えたらいいな、なんて夢がありました(笑)。
――そんなに楽しい夢があったのに(笑)、なぜ教員になるのを辞めたんですか?
学校では子どもたちの「素」の状態で関わるのが難しいと感じたんです。
僕たちの活動を学校の先生が見学にみえたことがあって、それまで好き放題にしていた彼らが急に「いい子」になったんですよ。一応、活動名はソフトバレーボールという名前はついていましたが(笑)、お互いにひたすらボールをぶつけ合って暴れていたのがピタッとやんだのを見て、「子どもたちと本音でふれ合うには教員じゃない方がいいかもしれない」と思いました。
――子どもたちが素になれたのは、相手が岩間さんだったからじゃないですか?
「僕だから」というワケではなくて、子どもたちに居場所があったからだと思います。そこに来る子たちは靴なんか揃えないし、脱いである靴を踏んで入ってくるような(笑)、「何でもあり」な自由な環境が良かったんだと思います。僕もそんな環境が好きでしたね。『渋谷ファンイン』って、中国語で「歓迎」の意味なんですよ。どんな子も断らない、みんな歓迎するよという意味が込められています。
求められるまま土地勘のない横浜へ。フリースクールの運営を経験
――岩間さんは今、横浜で活動なさっていますが、場所を移したきっかけは?
その当時、フリースクールで働くことを決めていましたが、場所はまだ決まっていませんでした。たまたま横浜のフリースクールの人手が足りなかったようで、横浜の担当になりました。
『渋谷ファンイン』を立ち上げた元校長先生の同期が横浜で同じような活動なさっていて、「横浜へ行くなら手伝って」って声をかけていただいたこともあります。
――それはご縁ですね。どんなことをなさったんですか。
僕は民間のフリースクールに勤めていたんですが、横浜の恩師のおかげで「横浜子ども支援協議会」のお手伝いもできることになりました。
――「横浜子ども支援協議会」というのは?
横浜市内にある民間のフリースクールが参画してつくっている協議会です。教育委員会とコンタクトをとりながら、不登校の子が社会的自立を目指せる環境を整備する、全国的にも珍しい組織なんですよ。恩師のおかげで公的な仕事にも平行して携わることができました。
――まだ横浜子ども支援協議会や教育支援協会南関東の事務局の専任にはなっていないんですね。
民間のフリースクールに勤めた経験を活かして、自分でフリースクールを運営してみたくなったんです。自分の力を試したかったのかもしれません。教育支援協会南関東を立ち上げた初代の理事長が「やってみたいことを何でもやってみるのはいいことだ」って背中を押してくれたこともあって。
――実際に何もかもお一人でやってみて、いかがでしたか?
目指している教育観を目の前にいる子どもたちには実践できます。でも一人でやるには、できることが限られてしまう。ボランティアにお願いして、手の足りない部分を補ってもらうことはできても、社会を変えることも、不登校の現実を変えることもできません。
――フリースクールはどのくらいの期間、やっていらしたんですか?
民間のフリースクールを含めて2~3年です。僕が始めたフリースクールは、教室としてお借りしていた場所がなくなることになったので、それを機に閉じました。そのあと、当時の教育支援協会南関東の理事長に声をかけていただき、職員になりました。
教員を目指していた岩間さんが渋谷で子どもたちの居場所をつくり、多くの子どもや若者たちに向き合ってきました。横浜に拠点を移してから、現場と運営の両面に携わるようになりました。
後編では、教育支援協会南関東の理事長になったいきさつ、子どもや若者たちに向き合う姿勢を学んだ3人の恩師のこと、子どもと向き合う仕事を希望している人に向けたアドバイスなどをお届けします。
撮影/森 浩司