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介護・看護・リハビリ 2024-12-03

火事ですべてを失い、フィリピンから日本へ!玉成苑 介護士 岩渕チャリスマ バリグワットさん#1

今回は介護士として、特別介護老人ホーム玉成苑で働く岩渕チャリスマ バリグワットさんにお話しを伺います。

前編では、フィリピンで会社員をしていた岩渕さんが来日を決心したいきさつ、技能実習生として働いているときに日本人男性に見初められて結婚を決意したこと、義弟のアドバイスで介護士の資格を決意するまでについてお話しいただきました。

お話しを伺ったのは…
玉成苑
介護士 岩渕チャリスマ バリグワットさん

フィリピンのセブ島で生まれる。20代の初めは外資系企業に勤務し、データ処理作業などを行う。20代半ばで国際人材協力機構の制度を利用して来日。技能実習生として丸八クリーニングでの作業にあたる。その後、日本人男性と結婚し再来日。30歳で介護士の資格を取得し、介護施設に勤務。’23年より玉成苑に勤務している。

20代で建てた家が火災で焼失。再建のために来日を目指す!

最初に建てた家は残念ながら焼失。こちらはフィリピンに再建した念願の新しい家。

――岩渕さんは来日する前は何をしていたんですか?

データ処理の会社で働いていました。アメリカやイギリスの大手企業から依頼があって、その仕事を請け負う会社の制作スタッフでした。

――それで英語が堪能なんですね。それは何歳くらいですか?

二十歳くらいです。この会社は24時間体制で夜勤もあったので、普通の会社より給料がよかったのが魅力でした。そのおかげで家族のために家を建てることができました。

――20代で家を建てたなんてすごい! それだけ恵まれていたのに、なぜ日本へ?

火事で家が燃えてしまったんです。効率よくお金を稼ぐには日本で働くのがいちばんだと思いました。友だちが国際人材協力機構(JITCO)で技能実習生を募集しているのを教えてくれて、すぐに応募しました。

――日本語はどこで勉強しましたか?

日本へ行く前に、ひらがなやカタカナといった日本語や、お辞儀の仕方など日本の習慣などを習いました

日本語の勉強をしながらデータ処理の仕事もしていたので、身体を休める時間が取れなくて本当に大変でした。それでも日本語のテストで1回だけ満点を取ったことがあるんですよ。母もビックリしていました。

――来日できたのは何年ですか?

2008年です。私が28歳のときです。このとき他の人たちのパスポートはあるのに私の分だけ間に合わなかったんです。「こんなに勉強してたいへんな思いをしたのに、私だけ行けないんだ」ってすごく悲しかったんですが、「この書類があれば大丈夫」だって言われて。私だけパスポートではなく書類だけでしたが(笑)、何とか日本へ来ることができました。

――最初はどんなお仕事だったんですか?

羊毛布団メーカーの関連会社、丸八クリーニングで布団のクリーニングをする仕事でした。ここで日本語の勉強をしながら1年間働きました。その後はフィリピンに戻って、元のデータ処理の会社に戻りました。

日本滞在中に見初められ、日本人男性と結婚し再来日

丸八クリーニングで働いていたときの同僚だった男性と’14年にフィリピンで結婚。

――岩渕さんがフィリピンに戻ったのが’09年。再来日したのはなぜ?

丸八クリーニングで同僚だった男性から「結婚したい」と言われたからです(笑)。彼はフィリピンの私の家にも挨拶に来て、母や家族に「結婚させてほしい」と言ってくれました。私はずっと外で仕事ばかりしていたので家事をやったことがないんです(笑)。母が「あなたに料理や洗濯ができるの?」ってすごく心配していました。夫はそんな私のことをすべて分かった上で「それでもいい」と言ってくれたんですよ。それで私も結婚を決めました。

――再来日したのが’10年ですね。

そうです。私が日本に行くまで、夫は何度もフィリピンに通ってくれました。

――ビザはすぐにおりたんですか?

配偶者ビザはすぐにおりました。でも期限が決まっていて書き換えるのが面倒くさいんですよね。しばらくしてから、友だちから永住ビザのことを聞いて申請しました。ビザを書き換える必要がなくなって、すごくラクになりました。

――日本に住むようになって、お仕事は?

フィリピンでコンピューターの仕事をしていたので、日本でも同じようなことができればいいなと思っていましたが、その当時の私はまだ日本語がそんなに使えなかったので難しかったですね。

義弟のアドバイスで介護の仕事にチャレンジ

フィリピンから遠く離れても、岩渕さんにとって家族との絆は大切なもの。

――介護のお仕事をするようになったのはどうしてですか?

私が仕事を探していることを夫の弟が聞いて、「介護の仕事ならある」って教えてくれたんです。弟は介護施設でドライバーをしていて、「どこの施設も介護士が足りないから、やってみたら?」って言ってくれたんですけど、でも絶対に無理だと思いました。

――どうしてですか?

私は身体がそんなに大きくないし、力もありません。夫みたいに体格のいい人を支えたり、介助することなんて絶対にできないと思っていたので、無理だと断りました。

――確かに、介護のお仕事は力を使うことがたくさんありそうですね。

フィリピンにいる家族や日本にいるフィリピンの友だちにも相談して、いろいろ考えました。何も知らないで悩むより、勉強してから考えてみようと思ったんです。それで介護の資格を取るために勉強しました。

――介護の勉強をするにも日本語が必要ですよね?

毎日の生活で使う言葉はもちろん、介護で使う言葉も分からなかったので、とても苦労しました。介護士の資格を取る学校でも、外国人は私だけでした。

――教科書も日本語ですよね? どうしたんですか?

先生がとてもよくしてくれて、私の両隣に日本人の生徒を座らせて、分からないことがあったらすぐに教えてもらえるようにしてくれたんです。

家に帰ってから「この日本語の意味は?」って夫に聞いたり、日本生まれで日本語がよく分かる友だちの娘さんに質問したり、いろいろな人に助けてもらいました。

――どのくらい勉強したんですか?

3か月です。学校でも家でも勉強して、ものすごくストレスが溜まりました(笑)。自分でも良くやったと思います。もうあんなに勉強することはないと思います(笑)。一生懸命に勉強したおかげで、試験に合格することができました。

焼失した家を建て直すために来日した岩渕さん。それが日本人パートナーと出会って、日本で介護の仕事をしながら暮らすことになりました。

後編ではいくつかの介護施設で働くようになったこと、仕事などで溜まったストレスを発散する方法、フィリピンのご実家のことについてご紹介します。

撮影/森 浩司
撮影協力/みどり国際交流ラウンジ

Salon Data

玉成苑 羽沢
住所:神奈川県横浜市神奈川区羽沢町1442-1

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