私の履歴書 Vol.6【美・ファイン研究所主宰小林ひろ美】#1
出会い、学び、環境、経験、そのすべてが今の自分をつくります。生い立ちや今の仕事に至るまでを伺う『私の履歴書』。今回は、美容家であり、「美=美しい顔・からだ」と「ファイン=輝く心」をテーマに研究と創造を行なう『美・ファイン研究所』を主宰する小林ひろ美さん。透き通るような肌に柔らかな眼差し、そしてポジティブなオーラが印象的です。世の女性たちに親しみやすいスキンケアを提唱する小林さんの、幼少期から仕事の目覚めまでを伺いました。
小林ひろ美’S PROFILE
幼少期~大学時代
3歳のとき乳液をつけたら肌が柔らかくなって「魔法のエキス」だと思った!
―化粧品にはいつごろからふれていたのですか?
母が長年、(株)コーセーで商品開発に携わっていたこともあり、物心ついたときから家にコスメがたくさんありました。サンプルや新商品がいろいろ並んでいて、お母さんごっこみたいな感覚で遊んでいましたね。幼い肌だからファンデーションでかぶれを起こしてしまったことも。でも、たしか3歳のとき乳液を自分でつけてみたら、肌がすごく柔らかくなったという記憶があって。「魔法のエキス」だなと子供心に感動したものです。また、その頃は、どの家庭にもこんな風にコスメがあるんだろうと思っていました。
―そのお肌は、小さな頃からのケアの賜物なのですね!
いえ、実は違うんです。母からは「必ず乳液やリップクリームをつけなさい。(私の肌質は)シワになりやすいから乾燥させないように」と常日頃から言われていて、小学校の頃までは守っていました。でも中学生くらいになると、美の意識が変わってきて。その頃は太陽と仲良くなっているような小麦色の肌が世間を賑わせていたから、「今は日焼けが流行りだし、青いシャドウをつけたサーファールックがいいのよ」と唱え、価値観のずれというか、私は自分で〝美肌反抗期(=肌グレ)〟と呼んでいるんですが、母から少しずつ離れて日焼けすることに自分らしさを追い求めていました。
―美容の世界に興味はなかったのですか。
母からは勧められましたが、思春期も重なって「自分は違うんだ」なんて考えるものだから美容には興味なく、マスコミや音楽など違う業界のことばかり考えていました。ただ、手に職をもっていると将来役立つと言われたので、高校1年生から山野美容専門学校の通信コースをスタート、高校1年生と2年生の夏休みに15日ずつ、実習教育にも通いました。夏休みは部活動もあるし、友達とも遊びたい。そのなかで銀座の美容室でインターンも終了して、言われたからやりましたという感じで面白みを見出そうとはしていなかった。専門学校の同級生は美容師になりたいという夢を抱いていて、それまでまわりに居なかった存在に刺激を受けたのは覚えています。
―大学は何を選考されたのですか。
日本大学芸術学部に入り、興味をもっていた映画を選考しました。アメリカに留学し、帰国後は海外で培った語学力をいかしたいと考え、輸入業に。ベビー服やアクセサリー、ステーショナリーなどを、アメリカ、ドイツ、ブラジルなど世界各国へ買い付けに飛び回っていました。ファッション誌にアクセサリーを貸し出したり、海外からカラーコーディネーターが来日した際のマネジメントをしたり、海外の人・ものを日本へ紹介する橋渡し役をはじめたのです。
美・ファイン研究所~日本と海外の架け橋
気づいたらシミやシワがたくさん!老け顔になっていた。私にできることとは?
―小林さんにとって、海外は身近な存在なのですね。
生まれたときから両親が共働きで、一人っ子の鍵っ子だったから、夏休みになると親が有給をとって海外に連れていってくれました。いろいろな国に行って、街の雰囲気も見ていたので、一人で回るのもあまり抵抗なかったのかもしれません。その後、母がコーセーを退職することになり、誘われて『美・ファイン研究所』を立ち上げました。脳と肌と腸はつながっていて、すべてが整って美=綺麗が生まれる。ホリスティックに美しさとファインをつなげていく研究機関です。それまでの仕事もいかすことができそうだし、ともに歩んでいくことに決めました。
―そこから、美容の専門家に?
いえ、まだです(笑)母は日本の第一線で働くメイクアップアーティスト・美容研究家。同じような土俵に立ったら、比べられて嫌な思いをするだけだと思って、私は裏で支える立場に徹しました。母の補佐をしつつ、メイク以外のジャンル、例えばフレグランスやアクセサリーなどの知識も身に付けて。あと、たまたまゲストに出たご縁でラジオDJをやることになったり、スカンジナビア政府観光局のお手伝いをしたり、変わらず世界中を飛び回っていました。
―スカンジナビア政府観光局とは、新たな領域ですね。
母のところに取材に来ていた方が「UptownEuropeNewScandinavia」というスカンジナビア(ヨーロッパ北部、主にデンマーク、スウェーデン、ノルウェー)の認知度を上げて旅行者などを増やすキャンペーンに関わっていたんです。そこでスカンジナビアについて感想を求められたときに私も呼ばれて、小学生のときにデンマークに赴き音楽に興味をもったなど、北欧の印象をお話したところ、数日後に観光局長と会うことになり、プロジェクトへの参加を打診されました。それからは2~3ヶ月に1度スカンジナビアに行き、リフレクソロジーやストーンセラピー、ときにはロックバンドまで、日本へ招聘し、テレビや雑誌、イベントに至るまで、コーディネートに携わりました。
―気温差、温度差がある日々、体調は大丈夫でしたか。
スカンジナビアのプロジェクトは、かれこれ3年。その間、パリにも6ヶ月に1度は行って買い付けや取材を行ない、一方休みが取れると常夏の国でバカンスして日焼けも続行。寒暖差にプラスして飛行機や北欧の乾燥にもやられて、気づいたら顔にシミやシワがたくさん!当時32歳でしたが見た目は・・・老けていましたね。その時にちょうど、ミスユニバースに輝いたスウェーデン女性を取材したんです。私より3歳年上なのにすごく綺麗な肌だった。なんでこんなに綺麗なのか聞いてみると「アキレス腱のうしろにオイルを塗って余分なものを流しているから。日本人は目の周りのシワばかり気にするけど、体の老廃物を出さないといいものも入らない」と言われて、もう目からウロコでした。
―いよいよ、目覚めのときでしょうか。
取材の帰りに早速オイルを買って試してみたら、肌が柔らかくなって代謝もアップ。スプーンでパッティングしてみたら、シミまで取れた!そうか、これは母から教わった美容の英才教育と、日焼けで肌グレを起こした体験、海外で得ている美容のインフォメーション、それらを自分の中で消化して生まれた「家の中でできるエステ」かもしれない。私は今まで母の付録と思っていたけれど、やっと私ができる、やるべき道が見えてきたのです。
一見恵まれた環境のなかにも日々の葛藤があり、模索しながら活躍の場を広げてきた小林さん。『美・ファイン研究所』を立ち上げて10年後、霧が晴れ、その道がパッと開けます。次回は、自身の目覚めからホームケアのプロになるまでをご紹介します。
取材・文/須永久美
撮影/千々岩友美
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