履歴書を持ってひたすら有名サロンへ 私の履歴書 Vol.5 【LECO 内田聡一郎】#1
長年、ヘアサロン「vetica(ベチカ)」のトップディレクターとして活躍していた内田聡一郎さんが2018年2月に独立し、「LECO(レコ)」をオープン。ヘアサロン業界の競争が激しさを増す中で内田さんが独立を決意したきっかけや、業界のトップランナーになるまでの道のり、そして「LECO」の今後の展望に迫ります。
内田聡一郎’S PROFILE
幼少期~学生時代
興味を持つとすぐに行動を起こしていた学生時代。野球少年から一転、アルバイト少年に
―まず、内田さんの幼少期から学生時代について教えてください。
ずっと野球をしていましたね。両親が共働きだったこともあり、学童保育でボール遊びをするうちに野球に興味を持って。小・中・高と続けていました。高校の途中で辞めちゃったんですけど、それまではずっと坊主でおしゃれにも美容にも全然興味がなかったです。
―どうして野球を辞めてしまったんですか?
バイトがしたかったんですよ。高校の友達は帰宅部の子が多くて、みんな学校終わりにバイトをしていたんです。バイトするとお小遣いが増えるじゃないですか。それでみんなが好きな服を買ったりしているのを見て、「すげぇ!」ってなって(笑)。部活をしているとバイトはできないので野球を辞めました。僕の高校は野球部が強くて、レギュラーになれなかったんですよ。それでちょっと腐っちゃった部分もあったと思います。小・中は野球一筋で地味なほうだったんですけど、高校に入ると付き合う友達が変わるじゃないですか。いわゆる高校デビューみたいな感じで、おしゃれするとか異性に興味を持つとか、そういう野球以外の面白いことが一気に増えた感じでした。
―その頃、美容にも興味を持ち始めたのでしょうか。
そうですね、高校3年生くらいだったかな? 僕の性格的に興味を持ったらパッと行動して何事も挑戦してみるタイプだったので、それこそワックスを買いまくってヘアセットしてみたり、美容院もおしゃれなところに通ってみたりとか。アルバイトは高3で始めたんですけど、そのお金で髪を染めてみたり、パーマをかけてみたり、学校にバレないようにツーブロックにしてみたり。いいなと思ったことにはひと通りチャレンジしていましたね。
転機となったのは美容室でのアルバイト
―学生時代はどんなアルバイトをしていたんですか?
メジャーなものはひと通りやりましたね。コンビニ、ガソリンスタンド、テレアポ、ピザの配達……。高3の夏にはピザ屋でちょこちょこ配達に行っていた地元の小洒落た美容院でアルバイトを始めました。おしゃれな美容師さんがいるサロンで、なんとなく興味を持って通い始めたんですけど、そこで僕の髪を切ってくれていたお兄さんが「美容師いいじゃん、やってみたら? ちょうどうちアルバイト募集してるよ」って言ってくれたんです。まだ進路も決まっていなくて、特に将来やりたいことも見つけられていなかったから「とりあえずやってみよう」くらいの気持ちで。いま思うとただ人手不足でうまくのせられた感じなんですけどね(笑)。そこでアルバイトを続けて、いよいよ進路を決めなきゃいけないってなったときに美容室の人に相談したら「このまま働けば?」と誘ってもらって、そのまま就職しました。
―専門学校には行かずに働き始めたんですか?
美容師資格は、働きながら通信で取りました。専門なら2年ですけど、通信なので3年。実際に学校に通うのは1年に1か月くらいでしたね。春と夏に2週間ずつ。実技は学校で習いつつ、働いていた美容室の先輩にも習いつつ、という感じでしたね。通信だと最後の国家試験の合格率が50%くらいなんですよ。普通の美容専門学校に通っていたら90%以上なんですけど。だから結構賭けというか、半分は落ちるので。伸るか反るか、みたいなところもあったかもしれませんね。僕は試験には無事受かったんですけど、それから1年以内に当時働いていた美容室は辞めました。休みなくただひたすら練習するのが当たり前の時代だったんですけど、そういう毎日の中で目標を見出せなかったんです。免許を取るまでは頑張ろうって思ってた分、達成したらそこで気持ちが途絶えてしまった。
アシスタント~デビュー当時
履歴書を持ってひたすら有名サロンに通っていた20代前半。
―地元の美容室を辞めたあとは何をしていらっしゃったんですか?
またすぐ別の美容室で働こうかなとも思ったんですけど違う仕事にも興味があって。飲食と服飾で迷って、結果、調理師を目指そうって思って地元のちょっといけてる創作料理屋でバイトを始めました。そこで2年弱くらい働いて、ある程度できるようになったんですけど、調理師の免許を取らないとちゃんと就職はできない。それでまた専門学校に行くと2年のブランクができてしまうのでそれはどうなんだろう?と思って。そこでやっぱり美容師になろうって原点に戻ったんです。
―「ヴェロ(VeLO)」のオープニングスタッフとして参加されますが、それまでの道のりは?
将来について本気で考えて、美容師に戻るんだったら原宿だ! と決めて東京で暮らし始めました。美容室といえば原宿、というくらい全盛期だったので。フリーターをしながらいろいろな美容室に足を運んだんですけど、有名店しか見ていなかったのでなかなか中途採用を取ってもらえませんでした。
―美容室に通いながら就活していたんですね。
はい、履歴書を持って髪を切りに行っていました。ただ、今思うと当時の僕はすごくミーハーだったんで、ただ有名店っていうだけで「入りたい!」と安易に考えていて。想い入れが特になかったんですよね。それはまぁ採用されませんよね(笑)。
―そんな日々の中、どのようなきっかけでVeLO(ヴェロ)に参加することになったんでしょうか。
当時渋谷にエステ系の会社が投資している新進気鋭のサロンがあって、業界的にも有名だったんです。当時の有名店の2番手、3番手みたいな人が、まぁいわゆる引き抜きでいっぱい集まっている感じで。それで僕も雑誌を見て「この人に切ってもらいたい」と思って行ったら、僕が希望した人は休みでいなかったんです。それで、じゃあ一旦誰でもいいやと思って担当してもらったのが、VeLOのオーナーの赤松さんだったんです。そこで美容室で働きたいという想いをプレゼンしたら、こっそり、「今度旦那と新しい店だすけど、君はやる気がありそうだからそっち受けてみない?」って誘ってもらったのがきっかけです。その日、そのタイミングで髪を切りに行かなかったらこの話はなかったと思うので、すごく運命的な出会いでした。赤松さんと旦那さんの鳥羽さんは美容業界でも有名な人だったので、今思うとたまたま誘ってもらってラッキーでしたね。
読者モデルの名前だけが一人歩きしていた。このままではいけない、とクリエイターの自覚が芽生えた20代。
―VeLOで苦労したことってありましたか?
スタイリストとしての経験はありましたけど、VeLOでは一からのスタートでアシスタントから始めました。オーナー夫婦と僕の間に同い年だけどキャリアが上の先輩がいたんですが、その3人が自分の想像以上にストイックで職人気質で、自分の中にある美容師像とは全く違ったんですよ。練習の量もそうだし、センスを磨くためのインプットとかも、自分が体験したことないことばかりで。最初に少し怖気づいたというか、VeLOで一気に東京の洗礼を受けた感じでしたね。音楽やカルチャーは今の僕のアイデンティティになっていますが、当時はメジャーなポップスしか聴いていなかったし、ファッションも流行りの雑誌に載っているものしかチェックしていなくて、“好き”の度合いが浅かったんです。自分ではそれなりに自信があったんですけど、もっと深堀りしなきゃって思い知らされて。“美容師たるものクリエイターであれ”というのは、職人気質のオーナー夫婦が常々言葉でも行動でも示してくれていました。それがいまの自分のベースになっていると思います。
―VeLOでのスタイリストデビューは何歳のときでしたか?
23歳で入社して、3年後の26歳でした。スタイリスト試験は2回目で合格しました。
―1回目の試験でつまづいたのはなぜでしょう?
最終試験がプレゼンテーションで簡単にいうと自分のセンスを見せるみたいな内容だったんです。モデルをプロデュースして、空間とか音楽とか演出を含めてプレゼンする、っていう。ひとりヘアショーみたいな。それが微妙だったみたいですね(笑)。自分では頑張ってやったと思うんですけど、まだ足りなかったんでしょうね。求められるレベルも高かったと思うし、VeLOで最終プレゼンをするのは僕が初めてだったから合格の基準もわからなかったですし。今思うと「1回落としておくか」みたいなニュアンスはお店側にはあったのかもしれません(笑)。
―スタイリストになる前から雑誌によく出演されていましたよね。
今はもうないですけど原宿のGAP前でアシスタント時代にモデルハントをしていたら雑誌の人に声をかけられて、スナップ常連みたいな感じになっていました。自分の中でのターニングポイントは、「CHOKi CHOKi(チョキ チョキ)」っていう雑誌の読者モデルに抜擢された25歳の頃。当時「CHOKi CHOKi(チョキ チョキ)」ってすごく人気雑誌で、自分でいうのもなんなんですけど、その辺の芸能人より人気があったんですよね。サロンにもたくさん電話がかかってきて「アシスタントだけど指名できますか」とか、「いつスタイリストデビューしますか」とか問い合わせがあるくらい。自分の名前だけが一人歩きしているみたいな状況でした。技術とかセンスとか、美容師としての実力よりも読者モデルとしての名前が大きくなっちゃって、それのプレッシャーは半端じゃなかったですね。
―そのプレッシャーはどう乗り越えたのでしょう?
VeLOはそういう読者モデルに対してアンチみたいなところがあったんです。そうやって有名になってカットがヘタだったらダサいよね、みたいなことは常々言われていたので、意識的に頑張りました。人一倍練習しましたし。そういった状況の突破口になったのが、デビューして一年後の27歳のとき。美容業界誌に作品を発表したり、ヘアショーに出たり、外に自分の作品を発信していく機会をたまたまもらったんですが、そのクリエイションが自分にすごくフィットしたというか。それまでは“中身がない美容師”というレッテルを貼られることもあったんですけど、自分の姿は表に出なくても自分の創作したものが誰かに評価される。そのプロセスが気持ちよかった。クリエイターというアイデンティティが芽生えたのも、この頃ですね。
美容師として、クリエイターとして、名実共に認められるようになった内田さん。次回は独立への転機や昨年オープンしたLECOの将来像をお届けします。
取材・文/山田理華子(レ・キャトル)
撮影/大柳佳緒里(スタジオバンバン)
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