どれかひとつ欠けても今の自分はなかった、3つの大切な出会い【UGATSU 小浜田吾央さん】#1
雑誌や映像の制作現場で活躍するヘア&メイクアップアーティストであり、プライベートサロン「UGATSU(ウガツ)」で美容師としても活動を続けている小浜田吾央さん。美容師を志してからこれまでを振り返り、「今の自分があるのは、3つの出会いがあったから」だと言います。
1つ目の出会いは、最初に就職した表参道のサロン。そこではたくさんの基礎技術や適応力を学ばせてもらったそうです。2つ目は働く上での心構えやデザインの礎を築くことになった、ヘアメイクの師匠との出会い。そして3つ目が映像作品のヘアメイクに携わる入り口となった先輩との出会い。それぞれの出会いを通して学んだ大切なことや、貴重な経験について教えていただきました。
お話を伺ったのは…
hairmake office&salon UGATSU
ヘアメイクアップアーティスト/美容師 小浜田吾央さん
2013年に日本美容専門学校を卒業し、美容室ohana(オハナ)に入社。2016年にスタイリストデビュー。2017年から美容室atelier makita(アトリエ マキタ)でヘアメイクアップアーティストの牧田健史氏に師事し、翌年フリーランスに。2024年2月、hairmake office&salon UGATSUを立ち上げる。
Instagram:@ugatsu_hairmakeoffice
KOHAMADA’S PROFILE
お名前 |
小浜田吾央 |
|---|---|
出身地 |
千葉県 |
出身学校 |
日本美容専門学校 |
憧れの人 |
特にいないですが、感謝をしている人はいます |
趣味・ハマっていること |
散歩、はしご酒 |
仕事道具へのこだわりがあれば |
必要だと思ったらすぐ買う、ケチらない |
表参道のサロンで美容師人生がスタート

――美容師になろうと思ったきっかけは何ですか。
高校生の頃は将来の職業としてやりたいことが特になかったんです。そんな状態で大学に進むのも何となく嫌で、「とりあえず専門職」と思って美容・理容・服飾・調理・介護の各種専門学校のパンフレットをひと通り取り寄せました。早く進路を決めたかったので、その中で一番受験日が早いところを選んだら、たまたま美容学校だったという…。
そんな感じで入った美容学校では、座学なら余裕だったのですが、実技の方が問題でした。ヘアセットの成績はクラスでビリでしたし、特別トレーニングという居残りレッスンのようなものの常連メンバーでもありました(笑)。
――就職活動の思い出はありますか。
「やるなら第一線でやれ」と父にずっと言われていたので、表参道や原宿のサロンに就職すると心に決めていました。憧れの美容師がいる店と業界誌で活躍している店に挑戦したのですが不合格で、結構めげましたね。そのあとohanaを受けた時は、自分を飾るというか良く見せようとするのはやめて、ありのままで臨んだら採用してもらえたんですよ。
――ohanaでのアシスタント時代、どんな経験をされましたか。
今思い返すと、ohanaはどこかしらのサロンで店長などを経験したスタイリストが集まっていたんですね。だからひとつの軸ではないんですよ、技術も考え方も。例えばアシスタントの技術チェックテストの場合、2人のスタイリストから同時にOKをもらえたら合格だったのですが、「この人とこの人の組み合わせの時は全体に受からない」ということがありました。そもそも概念が違うから、一方がOKでももう一方はNGが出てしまう。
当時は理不尽に感じることもありましたが、多様な考え方や意見を受け入れた経験は、適応力を養うという意味では良かったと思います。
察知力や予測力みたいなものも鍛えられました。同期や後輩が辞めてしまって、アシスタントが僕1人だけという時期があったんですよ。6人のスタイリストについて、それぞれが求めることややり方に合わせて先を読みながらアシストして。しかもサロンがメゾネットだったので、1階と2階を何度も行ったり来たり…(苦笑)。お客様に迷惑をかけてしまったこともあると思いますが、とにかくやるしかなかった。
――すごくキツかったですよね…。周りが辞めていく中で、小浜田さんが続けられた理由は何ですか。
辞めようとかほかの店に移ろうとか、考えませんでしたね。メディア撮影をバリバリやっているサロンが羨ましかったことはあります。僕も撮影の仕事をやりたいと思っていたので。でも、羨ましさだけで他店に行っても、そこでもきっと大変なことや嫌なことはある。今いる環境で打開するのが結果的にはいいんじゃないかなと思っていました。
――スタイリストデビュー後の印象的な出来事はありますか。
今でも忘れられないのは「暇なことの怖さ」を実感したことです。後輩にアシスタント経験を積ませるために、スタイリストになってからは手伝わせてもらえなくなりました。しかも自分のお客様はまだ多くないので、暇になってしまったんです。でも何かしていないと仕事にならないから、1度掃除したところをまた掃除するという状況がしばらく続きました。
何とか集客しようと、街に出てお客様ハントをしたり、当時流行っていたブログやフェイスブックを始めたりしましたが、なかなか結果が出ず…。今思うと頑張りも深刻さも足りなかった気がします。時間が解決してくれるという思いがどこかにあったのかもしれませんね。
雑誌で人気のヘアメイクに弟子入り

――先ほど、撮影の仕事に興味があったとおっしゃっていましたが、いつ頃から携わるようになったのでしょうか。
仕事に結びつく前段階の話になりますが、アシスタントの頃からヘアカタログの撮影に参加する先輩について行かせてもらったり、カメラマンと美容師が集まる撮影会グループに入れてもらったりしました。活躍されている美容師さんのヘアスタイリングや撮影の様子を間近で見ることができ、すごく良い経験になったと思います。
自分でもモデルさんを呼んで作品撮り(自分のスキルや世界観を表現するために行う撮影のこと)をしたり、誌面撮影も少しだけやらせてもらったりと、アシスタント時代もスタイリストになってからもコツコツと続けていました。
そうしているうちに撮影の仕事への思いが強くなり、自分のやりたい方向へ進むためにohanaを退社しました。
――そのあとはどこに?
atelier makitaというところに入社しました。当時、『セブンティーン』『ノンノ』といった人気雑誌や有名CMなどでヘアメイクとして大活躍していた牧田健史さんに、弟子入りしたような形です。まずはお店に髪を切りに行き、その時にスタッフを募集していたかどうかはわかりませんがとにかく「履歴書を送りたいです!」と伝えて。
初めから「うちは昭和スタイルでやるから」と言われ、当時の僕は「キツくされた」と思っていましたが、「厳しく細かく教えてくださった」んですよね。それまでの経験である程度のことはできると思っていたんですけど、全然役に立てず、怒られている時間の方がたぶん長かったです。
――その間、自分でもお客様の髪を切っていたんですよね?
一応切っていましたが、ほとんどの時間は牧田さんがお客様の髪を切っているところやメイクのスタンバイをしているところをひたすら「見て」学んでいました。見て覚えたことを自分で何とか試してみるんですけど、うまくいかず牧田さんに怒られて。それでまた技を見て…の繰り返しです。
――怒られるってことは、忙しい中でも小浜田さんのことをちゃんと見ていてくれたということですよね。
そうなんですよ。満足に手伝えていない僕に労力をかけてくれたことや、僕のことを変えようとしてくれたことが本当にありがたいです。生き方、働き方、この業界で結果を出すために必要なこと。根本的に大切なものを教えてもらったと思います。ただ、その時の僕は完璧には受け取れていませんでしたが。
結局、だんだん心身の調子を崩して、最後は倒れて救急車で運ばれてしまいました。病院に駆けつけてくれた牧田さんに「今日は休みでいいから」と言われた時、「明日は行かなきゃいけないのか」と思ってしまい、「自分にはもう無理です、辞めます」とお伝えしました。
フリーランスになり、映像作品のヘアメイクを学ぶ

――体調を崩したあとは、どうしたのですか。
1ヶ月くらいは実家で静養しました。実家の近くで美容師をしようかと思っているとサロン時代の先輩に話したら、「東京でしかできないこと、まだ何もやってなくない?」と言われ、「確かに!まだやってない!」となって。
ただ、まだメンタルがガタガタだったので、その状態で別のサロンに入っても周りに迷惑をかけてしまうと思いました。ちょうどその頃、「GO TODAY SHAiRE SALON」の1号店ができたばかりで、「フリーランスなら、うまく行かなくても自分が困るだけ」と思ってシェアサロンを契約しました。忘れもしません、初月の報酬は4328円でした。笑えない数字です!
1年弱くらいはシェアサロンでサロンワークをしつつ、都心から少し離れた街にある業務委託サロンで週3回バイトもして。あとはヘアメイクとして作品撮りをたくさんしていた感じです。
――初めてヘアメイクとしての仕事をしたのはいつ頃ですか。
フリーになって2年くらい経った頃です。シェアサロンの会社からの紹介で、自然光ダンサーとして活動している高須賀千江子さんの写真集でした。その後もいくつか紙媒体のヘアメイクをする中で、映像作品のヘアメイクもやってみたいという気持ちが芽生え、いろいろ調べてみたんです。
ある時、映像制作関係者が人材を探すインターネット掲示板を見つけて、ドラマのヘアメイクアシスタントに応募しました。映像の仕事に携わったのはそれが初めてで、ドラマの収録期間中はほぼ毎日、現場に行っていましたね。
――その間は、美容師としてお客様を受けられないですよね。
まあ、もともとお客様はあまりいなかったんですけどね(笑)。逆に言えば、だからこそドラマの現場にガッツリ入れたというか。収録がない日にお客様の予約を集中して受けていました。
ヘアメイクのアシスタント料は1日5000円くらいだったので、収入面では大変でしたが、その時はとりあえず映像の世界に飛び込むことが大事。お金のことは二の次でした。
――そこからどうやって、ご自身に仕事が来るようになったのでしょうか。
初めてつかせてもらった先輩ヘアメイクさんが、次の作品でもアシスタントとして僕を呼んでくださって、ドラマや映画を6〜7本一緒にやらせてもらいました。そのあと、その人の都合がつかなかった仕事を僕に振ってくれて、そこから独り立ちしました。
前編では、これまでの経緯をたどりながら、ヘアメイク&美容師としての小浜田吾央さんを形作った3つの出会いについてお聞きしました。
後編は、小浜田さんがメイクを学んだ方法や、化粧品プロデュースのエピソード、自身の事務所兼プライベートサロンの設立についてインタビューしています。
撮影/長谷川梓
取材・文/井上菜々子
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hairmake office&salon UGATSU
住所:東京都中野区本町4-19-6 OLD&NEW apartment 201
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