体質的に難しいと言われたエステ業で世界に挑戦! 私の履歴書Vol.38【R-BlooM エステティシャン 三谷麗奈さん】#1
プライベートエステサロン「R-BlooM」のオーナー 三谷麗奈さんは、技能五輪国際大会の「ビューティーセラピー職種」で世界2位に輝いたエステティシャンです。けれど、もともとアレルギー体質だったことから「エステティシャンになるのは難しい」と言われていたのだとか。
前編では、幼少時代から学生時代、そして技能五輪国際大会に出場した当時を振り返っていただきました。10代の頃から大人たちに囲まれ、いつも「先」を、そして誰よりも「上」を目指してきたそうです。
MITANI’S PROFILE
幼少〜進路選択
医者からダメと言われたエステの道に
――まずは幼少時代について教えてください。
やんちゃな子どもでした。走り回ったり、上り棒をよじ登ったり、男の子と遊んだり…。あと、先生を困らせるのも好きでしたね(笑)。授業開始のチャイムが鳴ったあとに隠れんぼをはじめたりとか。
私、運動が好きだったので、高校ではアクロバティックダンス部だったんです。ダンスの途中に側転とかハンドスプリングを組み入れたり器械体操とダンスを融合したユニークな部活でした。
――いつ美容業界を目指されたのですか?
高校3年生の進路選択のときに。女子高生って大抵は美容に興味を持ちはじめるお年頃じゃないですか。私もそのタイミングで「エステをやりたいな」と。
――なぜエステだったのでしょうか。
理由は3つありまして。まずは、美容に興味があったから。次に、人とお話しするのが好きだったから。そしてもう一つの理由が「健康」です。この3つが叶う仕事って一体何だろう? と考えたところ、エステだったんです。エステティシャンは直接手で触れて癒しを伝える幸せな仕事だと思ったんです。
――高校生のときにすでに「健康」に着目を?
実は私の家系はみんなアレルギー体質で、予防接種もできない、外で遊ぶと顔がパンパンになる、花粉の時期には外出すると息ができなくなるし…と、とにかく体質のせいで苦労が多くて。だから、「制限されなくて済むような健康な体でいたい」という気持ちが人一倍強かったんです。
――アレルギー体質の人だと、多くの化粧品を扱うエステティシャンになるのは少し難しい気もしますが…。
当時、お医者さんにエステの仕事をして良いか確認したところ、やはり「エステ業は難しい」と言われました。アレルギー反応とは、手から化粧品の成分が経皮吸収・蓄積されることで起きやすくなると言われているからです。私の場合はそのリスクが極めて高かったんです。でも「エステの仕事はできないよ」と言われたことで、逆にやる気スイッチが入ったというか(笑)。
親も最初は反対していました。でも私、一度「やる!」と言ったら聞かないタイプなので、向こうが諦めた感じですね。「本気でやりたい道なら協力するよ」と。
学生時代
本気でプロを目指す学校へ。自分以外はみんな社会人でした
――エステの学校はどのように決めたのですか?
私の場合、人よりもリスクを抱えた上での選択だったので、学校に通うならしっかり勉強できるところに入学しようと思っていました。「何の資格を取れば自分に付加価値が付けられるか」を高3のときに調べて、「CIDESCO(シデスコ)」というエステ業界の中で最高峰ランクと言われている国際ライセンスの存在を知ったんです。日本だとエステ業は資格がなくてもできる仕事です。
でも、お客様の大切なお肌に触れさせていただくのに、きちんと知識を持っていないのは不安がありまして…。それで「CIDESCO(シデスコ)」の資格が取れる専門学校を選びました。
――三谷さんにとっては真剣勝負だったのですね。専門学校での生活はいかがでしたか?
「CIDESCO(シデスコ)」の認定校というだけあり、カリキュラムはかなり内容の濃いものでした。一ヶ月に筆記・実技・口頭の計3回テストがあって、7割降格で再試。そんな中、私は赤点ばかり…。学業でいっぱいいっぱいだったのでバイトをしている余裕はなかったです。ひたすら勉強の毎日。エステの道に進んではじめてしっかり勉強したかもしれません。
でも仕方ない部分もあるのかなと思うときはありましたけどね。もともと、社会人やエステサロンで働いている方が資格を取りに来るような学校だったので、高卒の18歳で入学したのは自分だけ。ありがたいことに他のお姉様方がみんな優しくて、妹みたいに可愛がってもらいました。先生方や仲間に恵まれた学生生活を送ることができましたし、学生時代の仲間とは今でも定期的に会っています。
技能五輪への出場
日本人で「世界2位」は快挙と言われました
――技能五輪国際大会にはどのような経緯で出場を?
私の学校はエステ業界では最高峰レベルの学校だったので、前年度の技能五輪国際大会の日本代表選手の育成を担当していたんです。それで先生に「技能五輪って何ですか?」と聞いてみたところ、とても魅力的に感じて。私の恩師・パメラ校長先生にも「あなたもやってみたら?」とお声がけいただいたことも大きかったですね。
専門学校卒業後すぐに就職するか、技能五輪国際大会に出るか、どちらが今後の人生においてより自分の付加価値となるかを考えた結果、後者を選びました。一年制の学校だったので、もう少し修行してから就職しても遅くはないだろうと。すでに内定が出ていた就職先を蹴って、技能五輪国際大会に向けて本格的に準備をはじめました。
――今さらで恐縮ですが、そもそも技能五輪国際大会とは…?
いわば技術職種のオリンピックです。各国の技能を競う大会で、エステ以外にも機械系とか車とかパティシエとか、色々な職種が参加します。各種目一人または一チームが出場するんですが、私が出場した年は、日本からは40職種くらいが参加していました。
若手の育成や交流を目的としている大会で、基本的には若手のレベルの高め合い。そのため22歳以下(一部職種を除く)という年齢制限もあります。といっても年齢制限ギリギリの22歳で出場する選手がほとんどだったので、私のように19歳で出場した選手は少なかったと思います。
――エステ職種ではどのような審査があるのでしょうか。
大会前の予選課題として面接、大会当日は技術力とカウンセリング力を見られます。
カウンセリングでは、主にお肌の状態を見ます。色やくすみから水分不足かどうか、皮膚の厚みから敏感肌かどうか…など。日本人と海外の人では肌質が違うので、練習のときから海外のモデルさんに協力してもらって対策していました。
また、「30%変更」という必須項目が難関でして…。例えば、私は「ビューティーセラピー職種」で出場したのですが、エステの施術以外にもメイクやネイルもやるんですよ。海外では、エステティシャンはエステだけでなく、メイクやネイルもやる職業。だから大会は「世界のエステ」として行われるわけです。
「プロフェッショナルなあなた達なら、施術内容に30%の変更があってもできますよね?」という意図で、当日になってルールが変更になったり、道具が直前になって持ち込み不可になったり…。そういうイレギュラーもたくさんあるんです。
海外ルールが適用された大会でしたが、ありがたいことに外国人のパメラ先生にみっちり教えていただけたことと、私自身も国際ライセンスを保有していたことが幸いしました。
――シビアな世界ですね。
でも私、かなり燃えていたので。私の代わりに敗れてしまった方々の想いと、国の代表という責任を背負っていたので、「勝つ」以外の選択肢は私にはなかったです。
――大会中はずっと英語ですか?
そうですね。英語を使わなければいけないことも私達日本人にとっては不利ですよね。私も英語は全く話せず、施術時の「オープン ユア アイズ」くらい(笑)。
監督からは「海外の選手とは仲良くしておいた方が良い」と言われていて。でも「戦いに来たわけだし、他の選手たちと話す必要はあるのかな?」と思っていました。結論、仲良くしておいた方が絶対に良かったです。仲の良い選手達が私の片言の英語を汲み取って「おそらく、こういうことでしょ?」って教えてくれるんですよ。
大会でははじめて見るような道具などが出てくるんですが、周りの選手達とコミュニケーションが取れていると「これ何ですか?」と気軽に質問しやすいですし、みんながわからないときもそのことを把握できますからね。
――「ビューティーセラピー職種」で世界2位という結果を、三谷さん自身どう受け止めたのでしょうか。
実は、日本にとって「世界2位」という結果は快挙だったみたいです。だからまずはひと安心でした。正直、「1位を取りたかったな」という悔しさも少しありますけどね。
専門学校ですでに国際資格を取っていましたが、技能五輪国際大会に出場したことで、資格の比ではないくらいの付加価値が自分についたと思います。
――大会後に変化はありましたか?
働く上で大会結果の評価は高かったですね。大会後にエステサロンに就職したのですが、入社一ヶ月後に外資系ブランドで新製品の実演を、あとは私の年齢としては異例の「サブチーフ」という役職を任せていただきました。
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取材中、三谷さんの言葉で印象に残ったのが「付加価値」。エステの道を選んだ時点で「自分を高めるために何をするべきか」と目標設定をしたことが、のちの「世界2位」というタイトルにつながったのですね。向上心あふれる三谷さんは現在、どんな形でサロンを運営しているのか、次回詳しくお話をお聞きします!
▽後編はこちら▽
お客様に向き合うことと自分の家庭。私は両方を諦めません 私の履歴書Vol.38【R-BlooM エステティシャン 三谷麗奈さん】#2>>
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/柴田大地(fort)