プラウドライフ株式会社 代表・薗?宏(前編)介護には二度と戻らないと決心した社?が踏みとどまった理由
「これは介護業界に限った話ではないのですが、ニュースなどで報道されるようなネガティブな情報ばかりに⽬を向けるのではなく、⼩さいかもしれないけれどポジティブな変化が起こり始めている部分を、もっと知ってほしい」
「⼈が集まる、⼈が成⻑する、⼈が活きる会社」をビジョンに掲げ、⽼⼈ホーム・デイサービス『はなことば』を神奈川県中⼼に展開しているプラウドライフ株式会社・代表取締役社⻑の薗⽥宏さんは、そう話しました。同社では2018年4⽉にユニフォームを「脱介護」をコンセプトにした「私服⾵」に刷新したところ、ホーム(施設)全体ににぎやかさが演出され、お客さまがスタッフに気軽に声を掛けやすくなったほか、散歩や買い物といった外出時においても「介護」を意識することなく自分らしい生活を楽しむことができるようになったそうです。
「⼈⼿不⾜」「重労働」「⼈間関係が⼤変」といった先⼊観がまだまだ多い介護業界に新しい⾵を吹かせ続けている薗⽥さんに、介護と⾃分の過去×現在×未来について語ってもらった、74分。読み終えた後、きっと介護が今より⾝近なものになっているはずです。
プラウドライフ株式会社・代表取締役社⻑ 薗⽥宏(そのだ・ひろし)
1974 年⽣まれ。神奈川県相模原市出⾝。2013 年、株式会社まんように⼊社。取締役兼事業部⻑を経て、2014 年、同社の代表取締役社⻑に就任。その後、プラウドライフ株式会社の前⾝の株式会社ゆうあいホールディングスグループ(3 社)の代表取締役社⻑を務め、2017年より現職。座右の銘は「おもしろ、おかしく、真剣に」。
介護業界との接点̶̶ 「⼤好きな⺟を⼤切にしてくれる⼈たち」との出会い
「介護業界を志した理由の中に、『⾼齢者を救うために』といった⾼い志があったわけではありません。ただ、⺟親が⼊院していた病院でお医者さん、看護師さん、介護⼠さんの働く姿を⾝近で⾒ていたこともあり、『職に就くなら⼈を⼤切にする仕事がいいな』とは思っていました。サラリーマン?性格的に向いていなかったでしょうね(笑)」
⺟⽅の祖父母の家で育てられた薗⽥さん。お⽗さまは⽇中仕事に出ていたこともあり、よく祖⺟に連れられて、難病を患っていたお⺟さまを⾒舞っていたそうです。そこで⽬にした患者さんたちのために⼀⽣懸命汗を流している医療・介護従事者の背中が、介護業界との初めての出会いでした。
「当時、医療・介護従事者の⼈たちがどういった仕事をしているのか、正直子どもなりの理解しかしていなかったんです。ですので仕事内容は理解できなくても、『⼤好きな⺟親を⼤切にしてくれる⼈たちなんだ』といった認識は持っていました。皆さん、かっこよくていつも親しみを持てる⽅々でしたね」
お⺟さまのお⾒舞いを通じて介護業界̶̶ 「⼈を⼤切にする仕事」との接点を持った薗⽥さんは⼤学卒業後、特別養護⽼⼈ホーム※で働き始めます。
※別称「介護⽼⼈福祉施設」。社会福祉法⼈や地⽅⾃治体が運営している公的な施設を指します。
「介護の現場で働き始めた当時を振り返ってみると、仕事内容は確かに⼤変だったな……と。ただ、ホームに⼊居しているお客さまとの時間や夜勤明けに仲間と⼀緒に飲む時間は本当に楽しかったですね。
特に今でも忘れられないのは、当時 100 歳だった女性のご入居者のことです。普段、⾃分のことは⾃分でできるしっかりした⽅だったんですが、私が夜勤の⽇に⾼熱を出されてしまって。何とか⼀⽇でも早く回復するよう⼀⽣懸命お⼿伝いさせてもらったのですが、そのときにその方からかけてもらった『ありがとうね』の⼀⾔が本当にうれしくて……」
社会⼈になり、初めて社員として「労働」と向き合った若⼿時代。「介護の仕事の⼤変さ」を学⽣時代から続けてきたハンドボールで培った体育会系根性を⽣かして乗り切り、⾃分なりに「介護の仕事の楽しさ」を⾒出していた薗⽥さんに、1つ⽬の転職機会が訪れます。それは、介護職に従事して 10年ほどが経った頃でした。
「⾃分がつぶれる前に辞めよう」。ロマンだけで仕事ができなくなったとき
勤務していた特別養護⽼⼈ホームの理事長が株式会社を⽴ち上げ、「利⽤しやすい価格帯」をコンセプトにした有料⽼⼈ホームを新設することになりました。その背景にあったのは、当時多かった、経済的に余裕のある世帯向けの有料⽼⼈ホームの存在。新しいサービスは、⼊居の敷居を下げ、⼀⼈でも多くの⼈にホームを活⽤してもらうための新提案だったのです。
⽴ち上げを任された薗⽥さんは、記念すべき第 1 号店(⼾塚)と 136 室が⽤意されている最⼤規模の第 2 号店(新横浜)のホーム⻑を勤めます。しかし、4 年間働いた後、薗⽥さんが選択したのは、まさかの退職でした。
「⼀⾔でいうと、若かったんです。それまで、『お客さまのため。⼀緒に働く仲間のため』というロマンだけで仕事をしていたので、人の命の重さや人間関係を円滑にすることが煩わしくなってしまって。つらかったですね。『⾃分がつぶれる前に辞めよう』と決断しました」
「二度と戻らないつもりだった」けれど、再び⾏きついた介護の世界
介護業界そのものから離れることを決意した薗⽥さんは、「介護業界なんか二度と戻るものか。⼼機⼀転、別の業界で頑張ろう」と決⼼し、介護とは縁もゆかりもない職種への転職を求めました。しかし、ここでも薗⽥さんは厳しい現実を知ることになります。介護業界しか経験がなかったこと、その当時の厳しい転職市況などが重なり、なかなか転職先が決まらない状況が続きました。
「介護の世界で⽣きてきた⾃分は、他の業界から欲しがられるような⼈材じゃないんだなって思いました。介護業界で⾝に付けたスキルってなかなか応用がきかないんですよね。転職したくても転職できない⼋⽅ふさがりな状況でした」
するとある⽇、その薗⽥さんの状況を⾒るに⾒かねた人材紹介会社の担当者の⽅が薗⽥さんにある提案をします。それは、転職希望リストにあったある企業の⼦会社の紹介でした。
「希望を出している会社の⼦会社だったので、少し違和感があったんですよね。『何で、わざわざ⼦会社が出てくるんだろう』って。詳しく話を聞いたら、『介護事業を展開している会社です』と紹介を受けて。介護業界と縁を切る転職でもあったので、正直『また、介護業界に戻るのか……』とは思いました。ただ⼀⽅で、内定をもらえていない現実もありましたし、何より『このままの状態が続いたら家族を養えなくなるかもしれない……』という焦りがあったんですよね。背に腹は代えられないし、だったら⼀度⾯接を受けてみようかと」
⾯接官からの⼀⾔。「『営業職』に就いて、もう⼀度この業界を勉強し直したらどうですか?」
⾯接官にこれまでの経緯と、「ホームを運営する仕事はしたくない」とはっきり伝えたところ、返ってきた答えは「薗⽥さん。『営業職』に就いて、もう⼀度この業界を勉強し直したらどうですか?」。
「⾯接官の⽅の話を聞いているうちに、⾃分が必要とされていることを強く感じたんですよね。同時に、確かに介護業界を勉強し直すのはありかもしれないなと感じました。退職してからというもの、時が⽌まっていましたから。もう⼀度、介護業界に携わって、時計の針を動かしてみようと思ったんです」
⼼機⼀転、営業職として介護業界と再会した薗⽥さん。この会社が⼿掛ける介護事業はミドルアッパー層向けのホームの展開が主だったこともあり、以前勤めていた会社とは利⽤者層が異なっていましたが、それが逆に介護業界の知⾒を広げるきっかけになったそうです。気付けば、事業計画の実⾏や売上管理などの数字回りの業務をこなせるようになっていました。
後編は、プラウドライフ株式会社が誕⽣した裏話や介護業界に再び⾝を置いた薗⽥さんが考える介護の仕事の価値観などについて触れていきます。
>>プラウドライフ株式会社 代表・薗⽥宏(後編)「介護は尊くて成⻑できる仕事」と⾔い切れる覚悟と信念