自分らしく働くために。レンタルサロンで「一週間限定」からスタート【エステサロン 美寿(ビジュー。) オーナー 在間麻里さん】#1
「毎月、数日間だけオープン」というユニークな営業スタイルをしくプライベートサロン「エステサロン 美寿(ビジュー。)」。オーナーの在間麻里さんに、今回お話をお聞きしました。新卒で入社したサロンでは最年少で役職に上がり、若くしてバリバリ活躍されていました。しかし、その裏には数々の苦難もあったようで…。
前編では、在間さんが独立に至るまでのストーリーを追いました。大型サロンで抱えていた葛藤や、「期間限定の営業」にした理由などをお聞きしました。
教えてくれたのは
「エステサロン 美寿(ビジュー。)」オーナー・在間麻里さん
専門学校を卒業後、都内のエステサロンに就職。最年少でマネージャーや店長代理を務め、入社5年目の24歳のときに独立。レンタルサロンに「エステサロン 美寿(ビジュー。)」を構え、毎月1週間限定という形で営業をスタート。屋久島のスパを掛け持ちし、二拠点セラピストとして活動していた時期も。
苦難の多かった新人時代を経て、「頑張ってもできない」人の気持ちが理解できるようになった
――エステティシャンになったきっかけを教えてください。
父の仕事の都合でタイのバンコクに住んでいたことがあるんです。現地ではマッサージ文化が栄えていて、中学生のときにマッサージに興味を持ちました。同時に心理カウンセラーへの憧れと、アトピー体質ゆえに見た目に対するコンプレックスも激しくて。美容にも強い関心がありました。
高校1年生のときにエステティシャンという職業があることを知り、「エステティシャンならマッサージ、美容、心理学の全てに関わることができる」と気づいたんです。これだ!と、直感でした。
エステというワードを聞いたその日のうちにエステの学校を色々調べ、片っ端から資料請求して。お風呂場に資料を持ち込んで、ひたすら読み込んでいました(笑)。
最終的に、一番厳しそうな一年制の学校をあえて選びました。とにかく早く現場に立ちたかったので、短期でがっつりと学べるところが良かったんです。
――ストイックですね。卒業後はエステサロンに就職したとのことですが、新人時代は苦労もありましたか?
入社して1年半くらいまでが一番大変でしたね。
私が入社したサロンは、ボディ、フェイシャル、脱毛、ブライダル、バストアップ、マタニティ、メンズエステなど幅広く対応しているサロンだったので、全ての技術を覚えるのにまず苦労しました。
銀座や品川のサロンに勤めていたので、接客に求められるレベルも高くて。当時の私は20〜21歳。お客様に釣り合う接客ができるように、こちらも頑張って磨かなければと必死でした。
実は私、新人時代は同期の中で一番クレームが多かったんですよ。
――意外です! ご経歴を拝見すると早くに役職に就かれていたようですが。
経歴からは順風満帆のように見えるかもしれませんが、誰よりも技術練習をこなしてきたんです。
人一倍休日出勤をしましたし、他の店舗に出向いてカウンセリングを勉強したり、他社サロンにも自腹で通い、どんな施術やカウンセリングをしてるのかリサーチしたり。ビジネス書もたくさん読みました。そんな努力もあって1年目では新人賞を取り、同期の中でも一番早く出世し、毎回、最年少で昇格することができました。
けれど、努力をしてもなかなか思うようにいかず、お客様からはクレームを多くいただき、上司からは毎日叱られ、精神的に参ってしまった時期もありました。ストレスに体がついていかず、アトピーも悪化しストレス性の皮膚病になったり、ニキビなどの肌荒れに悩まされたりもしました。
――輝かしい功績の裏でたくさんの苦労があったのですね。
そこから挽回し、仕事一筋で頑張って、本当の意味で花咲きはじめたのは3年目以降ですね。
人一倍苦労した分、早くからたくさんの経験を積むことができてすごくラッキーだったと思います。新人時代は自分にとってはじめての挫折でしたし、「どう頑張っても上手くいかない」という人の気持ちがわかるようになりました。
独立後は、レンタルサロンで「毎月1週間限定」の営業
――なぜ独立を決意されたのですか?
実は高校生の頃からエステティシャンになったら独立したいなとは考えていたのですが、実際に働いてみると、現場に立つことの大変さを身に染みて実感したんです。なので、独立のことはいったんおいといて、会社の中で幹部に上りつめることを目標にし、とにかく仕事人間になっていましたね。
私が尊敬する知人の女性プロデューサーには「麻里ちゃんは独立する方が突き抜けるのが早いんじゃない?」と言っていただいていました。「いや、まだ私には早いです」と最初は流していましたが、会社員として働くにしても、独立するにしても大変なのは変わらないかと思って。二度背中を押してもらい、ようやく独立を決意。それが24歳のときです。
――どんなサロンをつくりたいというイメージはありましたか?
コンセプトやターゲット層などは何も決めていなくて、とりあえず見切り発車でのスタートでした。
というのも、私が独立した一番の理由は働き方を変えたかったから。大好きなエステをずっと続けていきたい。けれど、このまま会社員としてサロンで働いていたらいつか体を壊してしまう。自分が一番良いと思える技術や接客をするためには、スケジュールを自分で調整できる働き方をする必要があると思ったんです。
――期間限定の営業にしたのにはどんな理由が?
前のサロンとの約束でお客様には独立することをお伝えできず、集客はゼロからのスタートでした。貯金もほとんどなく、食べていける保証もない。そんな中で1ヶ月フルオープンではじめるのは難しいだろうと思い、本格的にお店を構えるまでの準備期間として「期間限定」という形でスタートしたんです。
こちらは1週間ごとに貸し出しをしているウィークリーサロンなんです。たまたま知人の紹介で借りることができたのですが、それもあって「1週間限定」になったんです。意外とその働き方がハマり、結果、気づいたら今に至るまで続いていました。
――ゼロからの集客だったとのことですが、オープン当初はどのくらいの来店数でしたか?
オープン初月は4日間だけの営業でしたが、22名の方にご来店いただきました。
「オープン記念価格60分¥5000」のメニュー一本だけにし、Facebookの友達限定記事のみで発信しました。ご来店いただいたのは全員、私の友達や知り合い、そのご紹介の方のみ。仕事に対する私の想いや、独立に向けての準備段階について発信していたので、記事を読んで応援してくれた方々が来てくださったんです。
数年やっているうちに、1週間に10〜15名、1日2〜3名のペースが安定してきました。
――そこからリピートを繋いできたのですね。
オープン当初から来てくれている方のほかに、屋久島やタイで出会った方が東京まで来てくれることもあるんです。コロナ禍前までは結構色々なところへ旅していたので、それぞれの場所で出会った方がエステに興味を持ってくれるという感じに、自分が広告塔になっています。
独立後、アクティブな在間さんはサロン=箱に固執することなく、どんどん外に活動の場を広げていくことに。後編では、タイへのマッサージ留学や、屋久島との二拠点生活に挑戦したお話をお聞きします。
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/SHOHEI