「カットは髪がキレイであればこそ」この言葉が起業の原動力に【(株)クレアトゥールウチノ 代表取締役 内野邦彦さん】#1
美容業界でスキルを磨きながら、将来は独立を考えている方も多いはず。そんな方たちのために、成功している先輩たちの経験談をお届けする本企画。今回、お話しを伺ったのは表参道・原宿に店舗を構えて36年の老舗サロン『クレアトゥール』代表取締役、内野邦彦さん。創業当初から髪を傷めない施術にこだわり、今なおその姿勢を貫いています。前編では、内野さんが憧れていたイギリスのヘアドレッサー、ヴィダル・サスーン氏を追いかけて渡米したこと、内野さんが髪の美しさにこだわるようになったきっかけなどをご紹介します。
お話を伺ったのは…
(株)クレアトゥールウチノ
代表取締役 内野邦彦さん
美容師免許を取得後、都内サロンに勤務。1980年代、カット技術で世界の頂点にあった「サスーンカット」を習得するために渡米。帰国後インストラクターとして、全国の美容師たちにサスーンカットの技術を教える。1987年に(株)クレアトゥールウチノを設立。1988年芦屋にサロン『クレアトゥールウチノ』をオープン。1990年にサロンを表参道に移転。2000年には原宿店をオープンさせる。
最先端のカット技術を学ぶためにL.A.のカットスクールへ
――内野さんはヴィダル・サスーン氏に師事していたこともあったとか。それはどのタイミングですか?
美容専門学校を卒業して、カットの有名なサロンに就職をしましたが、もっと学びたいという気持ちが強かったんです。教わっていた先生もちょくちょくアメリカへ行ってカット技術を学んでいらしたので、「これはもう、本場で勉強するしかないよね」と思い立ちました。
当時はヴィダル・サスーン氏が世界的に注目されていて、僕もサスーンマニアの1人でした。海外でカットの勉強をしたいと考えていたとき、サスーン氏がL.A.にカットスクールを設立したんです。それで迷いなくアメリカのサスーンスクールへ行くことを決めました。
――学校でみっちり学んだうえで、まだ学び足りないと感じたんですか?
僕がまだ美容学校でカットを学んでいた当時は、日本髪を結うための技術でした。ですから「髪を剥く」技が中心だったんですね。それなのに世の中に出てみると主流はブラントカット。これはイチから学ばないとマズいと。
――海外で学ぶには英語力が必要だと思いますが…?
確かに当初は困ることもありましたが、実践的な授業が多かったし、専門用語も多かったのでそんなに不自由はありませんでした。
――海外から戻ってからは何をなさったんですか?
海外へは行けないけれど、サスーンカットを学びたい美容師が全国にたくさんいました。その方たちのためにタカラベルモント社が全国で講習会を開いていたんです。そのインストラクターの仕事をしました。当時、僕はまだ21歳で、インストラクターの中でいちばん若かったんですよ。今から考えると本当に恥ずかしい。自分はまだそんなに極めていないのに…。
’90年になるとサスーン公認のインストラクター資格ができました。ロンドンに行って4日間、午前と午後に先方が用意したモデルをカットするんです。その審査にパスした人だけがインストラクターの資格がもらえます。
資格を取ったら終わりではありません。半年に一度ロンドンへ行き、レベルがキープできているかどうかを審査します。2週間かけて講義を受講し、デモンストレーションをやって帰国。しばらくすると合否の連絡がくる、というのを7年間続けました。渡航費を含め、すべて自腹でしたけれどめちゃくちゃ刺激的で楽しかったですね。あるときサスーンスクールの先生に「どうして学校で学んだことをサロンでやらないんですか?」って聞いたことがあるんです。そうしたら「街を歩いている人を見てごらん。学校で習った髪型の人はいるか?」って。もちろん1人もいません。カット技術を身につけるにはさらに勉強するしかなかったんです。
――いちばん最初にサロンを開いたのが芦屋ですね?
僕の出身は東京ですが、インストラクターとして担当していたエリアが関西だったんです。その関係で最初のサロンが芦屋になりました。
――サスーンマニアを自認していらっしゃるのに、サロンにサスーンの名前を入れなかったんですか?
友人から「アメリカ帰りを強調すると、過剰に期待するお客さまが多いから止めた方がいい」と言われたことがありました。サスーンの技術を学んだのは自分の中の問題であって、「サスーンカットをやっている」というより、「サスーンで学んだことを生かしてやっている」ことなんです。なので、もともとサスーンの名前を出して店をやる気持ちはありませんでした。
「カットはキレイな髪があってこそ」の言葉がサロンづくりの原動力に
――内野さんのサロンは「キレイ髪」にこだわった施術が有名ですが、何がきっかけだったんですか?
サスーン氏との出会いですね。L.A.のサスーンスクールで、サスーン氏が、僕たち学生たちをバスに乗せて工場へ連れて行ったんですよ。そこではサスーンのブランドのシャンプー、トリートメントを初めて作っていました。「なぜ僕がサスーンブランドのシャンプー・トリートメントを作ろうと思ったのかと言うと、どんなに素晴らしいカットをしても、髪がキレイでなければ映えないからなんだ!」って、学生たちを前に演説したんです。今でもその情景をはっきり覚えています。彼の言葉が僕の中にすんなり入ってきて、目からウロコでした。その瞬間から、自分の店を持つならサスーンカットにプラスして、髪をキレイにできるサロンにしたいと考えていました。
――‘80~’90年当時、髪をキレイにする施術は一般的ではなかったですよね?
そうですね。サスーンスクールから帰って、毛髪科学を学びたくてアリミノさん、タカラベルモントさんなど4社くらいのラボに通って勉強しました。さらに当時、日本の毛髪研究の第一人者だった大門一夫先生の研究グループに加わって、毛髪科学を勉強しました。
当時は何も考えずにパーマやカラーをしていましたが、それが髪のことを勉強するうち、いかに髪にダメージを与えていたのかが分かって、すごくショックでしたね。自分のサロンでは、髪を傷めない施術をしよう!と決めました。
――髪を傷めない施術は、サロンのオープン当初から?
研究を始めた頃は、髪を傷めないようにパーマやカラーをやるのに6~7時間かかってしまったんです。これではお客さまへの負担が大きいし、現実的ではありません。なので、最初のうちはメニューにパーマもカラーもなし。カットとヘアマニキュアだけでした。髪を傷めるのがイヤだったんです。それから2年ほど経って、ようやく髪を傷めないパーマやカラーとして、僕の店のメニューとして取り入れることができました。
――シャンプーやトリートメントのコマーシャルに出演なさる女優やモデルさんたちの髪をケアするようになったきっかけは?
仲間のインストラクターが担当していたコマーシャルで、ある女優さんの髪をキレイにできなかったんです。失敗してしまったんですね。それで僕のところに話が回ってきました。「2日ください」とお願いして、1回8時間のケアを2回やりました。先方が思い描いた通りのキレイな髪に直して、3日後の撮影に間に合わせました。コマーシャルの仕事が増えたのは、この出来事がきっかけです。今までに200何十本ものコマーシャルに協力しています。サスーン氏のヘアショーの仕事もしました。ショーに出演すると髪がものすごく傷むんです。出演したモデルさんたちの髪を修復する仕事も請け負いました。
――海外での勉強をきっかけに、仕事の幅がどんどん広がっていったんですね。
僕は自分のことをラッキーだと思っています。時代も良かったし、L.A.のスクールで学んだことでサスーン氏から「カットは髪がキレイであればこそ」という言葉をいただいた。帰国後に勉強する機会があったのもラッキー。もう大門先生はお亡くなりになりましたが、その弟子の方と偶然、街で会ったんです。その方に僕がほしいパーマ液やカラー剤の話をしたところ、「じゃあ作ってみようか」とおっしゃってくださったんです。その方との出会いがなければ、今のキレイ髪のメニューは生まれなかったと思います。
内野さん流! 起業を成功させるための3つのこだわり
1.身につけたい技術は、とことん探求すること
2.学んだことに満足せず、絶えずブラッシュアップすること
3.自分が大切だと思うことは守り抜くこと
ご自身のことを「凝り性」と分析するほど何ごとにも手を抜かず、とことん探求なさっている内野さん。だからこそ36年もの間、常に第一線で活躍なさっていらっしゃるのでしょう。
後編では、キレイ髪のメニューが生まれるまでの悪戦苦闘の日々について、36年の間でいちばん苦労なさったことについて伺います。
撮影/森 浩司