スタイリストとしての躍進をもたらしたのは、ひたむきに磨いた技術力【PHEME 中島健之さん】#1

入社したサロンの先輩の圧倒的な技術に憧れ、自身もコツコツと技術を磨き、やがて多くのお客様から信頼される美容師となった中島健之さん。現在は独立し、立川のサロン「PHEME(フェメ)」でオーナースタイリストとして活躍されています。

前編では、14年間勤めた前サロンでの経験を中心に、これまでの歩みをお話いただきました。

お話を伺ったのは…

PHEME

代表・美容師 中島健之さん

2009年、美容学校卒業後kakimoto arms(カキモトアームズ)に入社。青山店に所属し、2011年スタイリストデビュー。2018年に新宿店に異動するとともにスタイリストチーフに就任。スタッフ教育や雑誌撮影、セミナー講師を任され幅広く活動。2022年、PHEMEを設立。

Instagram:@takeyukinakajima

NAKAJIMA’S PROFILE

お名前

中島健之

出身地

神奈川県

出身学校

国際文化理容美容専門学校渋谷校

憧れの人

柿本榮三

プライベートの過ごし方・趣味

キャンプ、釣り

仕事道具へのこだわりがあれば

年齢も上がってきたので、一番の仕事道具である身体は食事・睡眠・運動を心がけ労ってあげています(笑)

本命サロンに入社してスタイリストの道へ

新卒で大手サロンに入社した中島さん。レセプションなどいろんなセクションを含めると約70人、美容師だけでも4、50人の同期がいたそう。

――はじめに、美容師を目指したきっかけを教えてください。

中学2年生の頃、もともと通っていた近所の床屋さんがリニューアルして美容室に変わりました。そこで担当してくれた美容師のお兄さんに、髪を短く切られたのがきっかけです。当時の僕は髪が長い方がかっこいいと思っていたのですが、「サッカーをやってるんだから、もう短く切っちゃおうよ」と言われて。

自分としては短髪がめちゃくちゃ嫌だったんですけど、翌日学校に行ったら思いのほか好評だったんですよ。翌々日には僕と同じ髪型にしてくる子たちもいて、そうなるとさすがに気分が良くなりますよね(笑)。その時に美容師の仕事の素晴らしさを知ったし、髪ってすごいなと思ったんです。

――専門学生の頃は、どんなことに力を入れていましたか。

ワインディングの練習をよくやっていましたね。国際文化理容美容専門学校の渋谷校に入ったのですが、そこはクリエイティブなことも多く学べたので、撮影もたくさんやっていました。

――その学校を選んだのはなぜ?

何校か見学に行った中で、国際文化理容美容専門学校は「締めるところは締める」というしっかりとした雰囲気が良かったんですよね。先生方と学生の距離が近くて、友達のように接している学校はあまりしっくりこなかった。ずっとサッカーをやっていて体育会系育ちだったからかもしれません。

――卒業後はkakimoto armsに入社されたんですよね。

進路相談で先生に勧められたサロンのうち、見学に行ってピンときたのがkakimoto armsでした。無事に志望のサロンに就職でき、青山店に配属されました。やはりトップレベルの美容師が集まるエリアなので、本当にすごい人たちがたくさんいて、正直怖かったです(笑)。

kakimoto armsの基盤を作り上げたようなベテラン美容師の方に憧れ、その人の素晴らしい技術をどうにかして学びたいと思って頑張っていました。アシスタント同士で切磋琢磨しつつ、チームワークも大切にしながら仕事をしていたのを覚えています。

――何年くらいアシスタントをされたんですか。

2年間です。kakimoto armsはスタイリストとカラーリストに分かれるスペシャリスト制度を敷いていて、全員2年以内にデビューを目指すんです。入社後、シャンプーやカラーの研修を終えた段階でどちらになるか自分で選び、その後はそれぞれに分かれて勉強会をします。

――中島さんがスタイリストを選んだのはなぜですか。

美容師になったからにはカットがしたいという気持ちもあったし、憧れのスタイリストの存在もあったので。そもそも、スペシャリスト制度ということで入社するかどうか一瞬迷ったこともあるんですよ。どちらかしかできないのか…と。

今思えば、専門職として分かれていて良かったと思います。どちらも奥が深すぎて!両方やっている美容師の皆さんを本当に尊敬しています。

技術を磨いて顧客を増やし、新店異動で活躍の場を広げる

もともとクリエイティブに興味があった中島さん。雑誌などの撮影に本格的に参加するようになったのは、意外にも入社10年目頃から。

――スタイリストデビュー後は、どんな目標を持って日々働いていたのでしょうか。

僕自身が人に影響を与えられて美容師を目指したので、大前提として、誰かに良い影響を与えられるような人間でありたいという気持ちがありました。そのためにも、一刻も早くトップスタイリストになるというのが、最初の目標でしたね。

――「一刻も早く」のためにどんな努力をされましたか。

デビュー後にいろんな先輩のアシスタントをして、たくさんのお客様とコミュニケーションをとりました。というのも、その先輩たちが不在の時に「じゃあ、代わりに中島に切ってもらおう」と思ってくれる人を増やしたかったからです。当時はまだSNSでの集客が活発になる前で、チャンスがかなり少なかったので、そういう方法をとったんですね。

あとは、店販の売り上げが多い人がフリーのお客様を振ってもらえたので、そこも力を入れました。

――お客様に商品をご紹介して、販売につなげるのはなかなか大変だと思います。どんな工夫をしましたか。

美容室でいろんな商品を紹介されるのって、苦手な方が多いじゃないですか。だから僕はセールストークのようなことはあまりしなかったですけど、とにかく技術を磨いたのがポイントだったと思います。

例えばシャンプーの腕を上げて褒めてもらえたら、自然とシャンプーの話題になるんですよ。そうすると、お客様の髪にはこういうアイテムが合いますよという流れになる。店販が得意だったわけではなくて、技術からアプローチする努力はしていましたね。

――新規のお客様はどのように獲得していたのでしょうか。

ずっとリピートでいらしている固定客の方が多いサロンだったので、特にデビューしたての技術者には月に一人新規の方が来るかどうかくらいでした。なので当時は、街へ出てモデルハントをしていました。技術を磨くためにカットモデルさんの髪をよく切らせてもらっていたのですが、そこからお知り合いを紹介してもらったりして、お客様を増やしていきました。

――雑誌の撮影に参加するようになったのはいつ頃ですか。

先輩方の撮影について行くことはたくさんあったのですが、自分自身が撮影を担当するようになったのは、2018年に新宿店に異動してからですね。オープニングメンバーになったスタイリストは若手が多く、僕がチーフという立場でした。会社の経営陣からは「経験がなくても、新店の宣伝のためにこれからどんどん撮影をやらなきゃいけない」と言われ、プレッシャーが大きかったですよ。

そこから、コンテストで優勝するくらい上手なトップカラーリストと組んで、週に2、3本は撮影をするようになりました。最初の頃は雑誌の撮影現場が怖くて、「やめたい」「逃げたい」「向いてないかも」と、精神的に追い込まれてしまったことも。でも、その経験があったから今があると思います。

――スタイリストとカラーリストが組んで、ひとつの作品を作るんですよね。どういう感じで進めるのですか。

カットの専門家とカラーの専門家がいて、日々のサロンワークを行なっているので、撮影もその延長ではあるんです。企画書をいただいたらその意図を汲んで、普段お客様の髪をやるのと同じように意見を出し合っていきます。カラーはこれが似合いそう、それならカットはこうしよう、じゃあ表面にハイライトを入れようか…という風に。

カラーリストがたくさん在籍していたので、媒体や企画によっていろいろな人と組んで仕事ができたのも良かったなと思います。

スタイリストチーフや外部講師を務めて経験値をアップ

青山店所属の頃から、メーカー主催のセミナーや専門学校の授業で講師を務めていた中島さん。技術力も人柄もうってつけだったように感じます。

――新宿店ではスタイリストチーフとしてスタッフ教育も任されたとか。

教育面では、定期的なカット勉強会から人間力を育てる部分まで幅広く携わらせていただきました。こまめに面談をしたり、サロンワーク中も周りのスタッフに目を配ったり。技術や接客に関して気づいたことをフィードバックするようにしていました。

――チーフ業で大変だったことはありますか。

僕、人に対して滅多に怒れないタイプなんです。周りから「もっとちゃんと言ったほうがいいと思います」と厳しく指摘されたこともあります(笑)。優しいと言われることもあるけど、本当に優しい人は誰かのためにきちんと怒れる人なんですよね。そういうところが一番大変でした。

――撮影やスタッフ教育のほか、外部講師もしていたんですよね。どんなことを教えていたのでしょうか。

例えば、出身校である国際文化理容美容専門学校ではカット授業を担当しました。トレンドスタイルをひとつ取り上げて、学生の皆さんにウィッグで切ってもらい、それをチェックしてアドバイスします。楽しんでほしかったので、最後はちょっとコンテスト風にして、誰が一番上手くできたか決めてみたり。

授業を通して交流する中で大切にしていたのは、美容学生さんに対してリスペクトの気持ちを忘れないことです。彼らも僕たち美容師も目指すところは一緒。「お客様を幸せにする」というひとつのゴールに向かう仲間ですから。

――充実の日々を送る中、独立を考えたきっかけは?

32、3歳頃に、自分より一回りほど上の先輩方の姿を見て、考えるところがあったんです。もちろん自分の頑張り次第ではありますが、40代、50代になった時の働き方に不安を感じたんですよね。

僕はkakimoto armsが好きですし、すごくお世話になっているので、生意気ながらプレゼンテーションもしました。安心して一生働ける会社にするためにこうしたらいいんじゃないか、なんて。その時は親身に話を聞いてくださり、「いろいろ考えてくれてありがとう」という言葉もいただきました。

――それくらいの年齢って、先のことを考えて岐路に立つ時期ですね。

そうなんですよ。悩んだ末に辞めることを決意してから、1年ちょっと話し合いを重ねて退社しました。               


長年勤めたkakimoto armsを辞め、立川に自身のサロン「PHEME」を立ち上げたお話は後編に続きます!

撮影/高嶋佳代
取材・文/井上菜々子

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PHEME
住所:東京都立川市曙町2-32-3 立川三和ビル1F
TEL:042-518-9559

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