いいものを直接お客様に伝えられるエステティシャンの仕事が楽しくて【エステティシャン谷真由美さん】#1
よもぎ温熱セラピー協会の設立者であり、「よもぎの女王」の別名を持つ谷真由美さん。谷さんは、大学生になってメイクをするようになったことを機に、アトピーに悩まされます。
社会人になり、食品メーカーや下着の販売の仕事を通じて、自身の肌悩みの原因が化学物質に起因することが分かり、長年悩んだアトピーの解消に成功した谷さん。「同じ悩みを抱える人に、これを伝えなくては」という熱い思いに駆られ、エステサロンをスタートさせたのだそう。
前編では、開店直後、売り上げを確保するために3000枚のチラシを撒いたエピソードや、エステティシャンとしての接客のテンプレートが完成するまでの話を伺いました。
MAYUMI’S PROFILE
- お名前
- 谷 真由美
- 出身地
- 三重県伊勢市
- 年齢
- 60才
- 出身学校
- 大阪樟蔭女子大学
- 仕事道具へのこだわり
- オーガニック、化学物質でないもの
- プライベートの過ごし方
- 宝塚歌劇団 花組 柚香光さんとFANTASTICS 木村慧人さんの推活。
肌荒れの原因を伝えたくてエステティシャンを目指す
――まずエステティシャンを目指したきっかけを教えてください。
いま思えば、大学生になってメイクをするようになったことが原因で、結構ひどいアトピー性皮膚炎に悩まされたんです。皮膚科でステロイドを処方され、それを塗ると治り、止めるとまた痒みが出る。その状態を10年近く繰り返していたのですが、あるときふと、この薬は私を治せていないんじゃないかと思ったんですね。
――何かそう思われるきっかけがあったのですか?
大手食品メーカーのOL時代、化学薬品による製造工程に対する危険性を知り、その後勤めた叔父が経営する下着の会社では、下着の繊維に残った洗剤が肌に悪影響を及ぼすことを知りました。その事実に衝撃を受け、帰宅後に自分が使っている化粧品の成分表を見ると、洗剤に使われているのと同じ合成界面活性剤が配合されていることが分かったんです。そのとき、これが肌を荒らしている原因だなとピンときました。それからは、食品を買うときにも成分表を見る癖がつき、肌に影響がありそうなものをなるべく摂らないようにしていたら、1年もしないうちにアトピーがおさまったんです。
それまでは、ステロイドで痒みがおさまっているときだけメイクをしていましたが、いつもメイクを楽しめるようになったのが嬉しかったですね。「自分と同じように悩んでいる人のために、これを伝えないといけない」と思ったことが、美容の道に進むきっかけになりました。当時、下着の販売に携わっていて、女性の美や健康に近い仕事をしていたので、その思いを形にするために、エステサロンをオープンしようと思ったんです。
たまたま体験したエステに感動し、そこのスクール生に
――エステの技術はどこで学んだのですか?
それまでエステサロンにそれほど行ったことがなかったので、まずはいろんなサロンに体験に行きました。そしたら、とっても上手な手技で、最高に気持ちいいサロンがあったんですね。当時はまだ珍しいリンパマッサージを行う男性エステティシャンでしたが、その方にマッサージの方法を教えてもらえないか尋ねると、なんと「来月からここでスクールを始めるのでぜひ」と。さっそくスクール生となり、フェイシャルとボディの基本的な手技を教えていただきました。
――スクール卒業後、すぐにエステサロンを構えたのですか?
まだ自信がなかったので、下着の会社の店舗の中にエステ用のスペースを作りました。そこで、オーガニック化粧品を使ったフェイシャルをメインに、エステで使うタオルもすべてオーガニック、そのタオルを洗う洗剤には界面活性剤不使用のものを使い、自然派をコンセプトにスタートしました。
長年やっていると、自分の中に接客のテンプレートができてくる
――食品メーカー、下着の販売の仕事から、はじめてエステティシャンの仕事をされていかがでしたか?
エステを始めたきっかけが、生活習慣の中に肌荒れの原因になるものがあることを伝えるためだったので、それをお客様に直接伝えられることは楽しかったです。でも、人に直接触れるエステの施術は、毎回ドキドキの連続でした。マッサージの強さひとつをとっても、好みがいろいろだし、私もまだまだ技術的には未熟でしたから、自信がなかったんですね。楽しい反面、毎回すごく緊張していたことを覚えています。
――どれくらいで慣れましたか?
いろんなお客様を一巡して、自信がついてくるまでに1年くらいかかりました。できるようになったなと思っても、また違うタイプのお客さんが現れるんですよね。体格も、肌質も、性格的なことも。それを一巡して、どんな人が来ても動じなくなるには、やっぱり1年くらいかかったと思います。正直、いまでも苦手なことはあるんですよ。でも、何十年もやっていると、こういう場合はこう対応すればいいというテンプレートができてくるんです。
――1年でテンプレートが作れたのはとても早いのでは?
たぶん、叔父の会社で下着の接客をしていたのがよかったんだと思います。お客様に裸になっていただいて、それこそバストも全部見える状態で下着のつけ方までお教えする仕事をしていたので、お客様との距離のとり方はある程度学べたのだと思います。
――エステの仕事に通じるものがあったのですね。
すごくありました。3~4年下着の仕事をしていたので、ボディを目の当たりにするエステティシャンの仕事のベースができていたのかもしれませんね。
夜営業が終わった後、自転車を押しながら3000枚のチラシを撒いた
――エステサロンはすぐに軌道に乗ったのでしょうか?
いえ、全然すぐにはうまくいきませんでした(笑)。でもラッキーだったのは、個人サロンがまだまだ少なかったこと。エステといえば有名大手サロンばかりでしたが、逆に大手サロンに行きたくない方が、クーポン雑誌を見てポツポツ来てくださいました。
当時スタートアップの企業向けに融資をする金融機関で少額を借りて、あとは自己資金だけで始めたのですが、1年くらいは赤字だったと思います。一人スタッフもいたのでそのお給料もありましたから、自分はお給料を取れないこともありました。プラスにはならないけど、まあなんとか回るようになるまでには1年くらいかかったと思います。
――軌道に乗るまでには、どんな努力をされたのですか?
当時はいまみたいにSNSに広告を出したりできなかったので、ひたすらチラシを撒きました。効率は悪かったですけど、夜営業が終わった後に自転車を押しながら、ひとりで3000枚ぐらい撒いたんじゃないかな。
あとは、休んでなかったです。とにかく1人でも多く来てほしいので、断るという選択肢がなかったんですよね。オープンして3年くらいは、お正月でも電話があれば「いまから行きます」と対応していました。もうとにかく必死だったので、365日のうち360日ぐらいは開けていました。
後編では、よもぎ蒸しにたどり着いた理由や、エステティシャンとして現場をやり尽くしたからこそ生まれたオリジナルブランド「Yomogina」についてなどお伺いします。
取材・文/永瀬紀子