スタートラインに立てなかった自分を責める日々。諦めず歩み続けた下積み時代【ヘアメイクアップアーティスト川村聡子さん】♯1
起業家のプロフィール写真撮影のヘアメイクやディレクション、メイクレッスンなどのメニューを提供しているヘアメイクアップアーティストの川村聡子さん。魅せたいイメージやビジネスのイメージから逆算して、洗練されたプロっぽさを表現する「世界観ビジュアルメイク」を確立し、これまでの担当数は500人を越えるといいます。
元々はビューティ雑誌や広告を担当できるヘアメイクアップアーティストを目指していたという川村さん。紆余曲折を経てアシスタントの座をつかんだものの、そこは自分が活躍できる場ではなかったといいます。川村さんが「人生最大の暗黒期」と語る下積み時代を振り返っていただきました。
お話を伺ったのは…
川村聡子さん
1978年生まれ、福岡県出身。2001年資生堂美容学校卒業後、(株)資生堂入社。その後、美容室1店舗を経て、2006年SABFA(資生堂が運営するヘアメイクスクールSHISEIDO ACADEMY OF BEAUTY & FASHION)で1年ヘアメイクを学ぶ。卒業後は、ヘアメイクアシスタントとして現場経験を積み、のちにフリーに転向。2011年SHISEIDO THE STORE内、ヘアメイクサロン「Beauty Boost Bar」にオープニングメンバー、チーフとして入社し、10年間で2500人以上のお客様のヘアメイクを担当する。その後、起業し2019年からは起業家に特化した撮影ヘアメイクやディレクションを手がける。口コミで評判が広がり、今では年間100人以上のキービジュアル撮影のヘアメイクを担当するように。
KAWAMURA’S PROFILE
- お名前
- 川村聡子
- 出身地
- 福岡県
- 年齢
- 46歳
- 出身学校
- 資生堂美容技術専門学校
- 憧れの人
- 今は誰かに憧れる気持ちがあまりなくなりましたが、若い頃は資生堂のアーティストに憧れていました
- プライベートの過ごし方
- カフェでゆっくり過ごす時間が幸せ
- 趣味・ハマっていること
- 趣味は特にないのですが、ファッションやメイク、ネイルなど美容に関する情報を見たり、店頭でチェックしたり、やってもらうことも大好きです
憧れは資生堂のヘアメイクアップアーティスト。21歳で美容専門学校に進学
――川村さんがヘアメイクアップアーティストになろうと思ったきっかけから教えてください。
私が子どものころ、トニー田中さんなどヘアメイクアップアーティストの方がテレビによく出るようになって。それまでは絵を描くことが好きだったので、ファッションデザイナーになりたいと思っていたのですが、服をデザインするよりも、人の髪や顔をきれいにする方が楽しそうだと思ったんです。そこからは一切の迷いもなく、ヘアメイクアップアーティストを目指すようになりました。
――その後、資生堂の美容専門学校に進んだそうですね。
はい。高校卒業後、あるブランドのメイクスクールに通ったり、美容学校でメイクを教える方のアシスタントをしたりしていたのですが、あまりしっくりこなくて。そのころ、資生堂のCMや広告を目にする機会が増えて、その世界観や技術に惹かれるようになったんです。
私も資生堂の広告のメイクを手がけられるようなアーティストになりたいと思っていたところ、祖母のお友達でメイク業界に詳しい方から「資生堂の広告は、資生堂の美容専門学校を卒業して、本社所属のアーティストになったら担当することができるんだよ」と教えてもらいました。そこで21歳のときに、福岡から上京して、資生堂の美容専門学校に入学したんです。
本社のアーティストになるには、成績もよくないといけないと聞いていたので、絶対に主席で卒業すると決めていました。学校の敷地内に寮があってそこで暮らしていたのですが、寮でも学校でも朝から晩まで練習漬けの毎日でしたね。そのかいもあってか、無事に主席で卒業することができました。
本社所属アーティストを逃し、ビューティ雑誌の世界へ
――その後、本社所属のアーティストに?
最終的にはなれませんでした。専門学校卒業後、試験に受かった5、6人が本社のサロンに入れて、その1年後に本社所属のアーティストになるための試験を受けられる仕組みでしたが、私は本社のサロンに入ることはできたのですが、1年後の試験には落ちてしまって。
――そうだったのですね。
本社のアーティストになる方法が当時はもうひとつだけあって、それが資生堂の運営するメイクアップアーティスト養成スクール「SABFA」を卒業して、試験を受ける方法でした。夢を諦められなかった私は、「SABFA」から本社所属のアーティストを目指すことにしたんです。
4年ほど美容師として働きながらお金をためて、29歳のときに「SABFA」に入り1年間学びました。ですが、そのときちょっとした心変わりが起こってしまったんです。当時、ビューティ雑誌に勢いがでてきたときで、私もビューティ雑誌の撮影に携わるヘアメイクアップアーティストになりたいと考えるようになりました。
「SABFA」卒業後は、好きなアーティストさんが何人かいたので、その方達に連絡してアシスタントの座をつかむことができたんです。
夢を叶えるためのスタートラインで味わった挫折。絶望の4年間
――アシスタントになってみてどんなことを感じられましたか?
夢を実現するためのスタートラインに立つことができたのですが、ここからの4年間が私の人生最大の暗黒期だったと思います。技術以前に、求められる気配りや動きに対応できず、さらに競争のはげしい世界のなかで、必要以上に負の感情を受け取ってしまうところがありました。その場の空気を読んで、気を遣ってうまくやり過ごすことが私にはできなくて。被害者意識も強く、気が利かないところも多かったので、使いにくいアシスタントだったと思います。
師匠にも怒られることが増えて、気が利かない、仕事ができないと、どんどん自分を責めるようになっていきました。それを続けているうちに、朝目が覚めたときに涙が止まらなくなったり、仕事場でも普通に振る舞えなくなってしまって、精神的にかなり追い詰められるようになりました。だんだんと現場に呼ばれないことが増え、数ヶ月ほどして師匠からの依頼の連絡が途絶えたときはむしろほっとした気持ちの方が大きかったです。
――その後は、どのようにしてキャリアを広げていったのですか?
その後も、ビューティ雑誌の仕事を諦められず、美容師の仕事をしながら、出版社に作品集を持ち込んだりもしましたが、それもなかなかうまくいきませんでした。美容師の仕事で生きていくだけのお金は稼げていたので、ツテで入るヘアメイクのアシスタントの仕事を受けながら過ごしていましたが、本当に絶望の方が大きかったですね。お金どうこうというより、現場を経験したい気持ちが強かったです。
そんな生活を3年ほど続けたあとに、「SABFA」時代の恩師から連絡があって、資生堂が一般の方向けのヘアメイクサロンをつくるから、そこのチームのチーフをやらないかと打診を受けたんです。「聡ちゃん、あなた性格が優しすぎるからファッション誌の業界は向いてないよ。サロンの責任者の方が向いていると思うからやりなさい」と。
本当にありがたいお声がけで、2011年のオープンから10年ほど、そのサロンでヘアメイクを担当させていただくことになりました。
4年ほど辛い時期を過ごした川村さん。後編では資生堂のサロン、フリーランスを経て、起業家向けのヘアメイクで起業したお話しを伺います。