苦しくも新しい世界は大歓迎。瞬発力を武器に、いつも「その先」を見据えて【ヘア&メイクアップアーティスト 徳永優子(YUKO T.KOACH)さん】#1
数多くのハリウッド映画で活躍されているヘア&メイクアップアーティスト徳永優子(YUKO T.KOACH)さん。アメリカのエミー賞に日本人最多の4回ノミネートを果たすという輝かしい功績をお持ちですが、今回の取材に対して「私がこの記事でお伝えしたいのは功績ではないんです」とのこと。一度の成功を自画自賛する暇を自らに与えず、次から次へと挑戦や経験からの「魂の成長」を楽しんできたそうです。そんな徳永さんの生き様は一体どれほどエネルギッシュなものなのか。
前編では、渡米に至る経緯、骨董屋さんでハリウッドからスカウトされた話、超・実力主義のハリウッドで生き抜くための力などを聞かせてくださいました。
YUKO’S PROFILE
着物から繰り広げた夢
――徳永さんは、渡米前は和装の世界にいらしたんですよね。
着物が大好きだったんです。継母に「人に教えてお金にしたら?」と言われ、高校には進学せず、16歳から修行を積み、21歳で和装着物師範免許を取りました。
私の着物へののめり込み方は半端じゃなく、雑誌で素敵なスタイルに出会うたびに記事の下から先生の名前を探し、連絡を取り、弟子にしてもらって…(笑)。色々な先生のもとで学びたかったので、全国を転々としていましたね。
――どのようなお仕事をされていたのですか?
婚礼の仕事をしていました。当時は、花嫁さんのお色直しを一人で全部担当するのが当たり前。だから、メイクもヘアセットもカットも全部勉強しましたね。
何事もスピードを求められるし、ご親族ともコミュニケーションを取らなければいけない。業界の中では10代の自分はかなり若い方で、よく「26歳です」と偽っていましたね。そういう世界で生きていたので、若くして大人になっちゃったんですよ。
――なぜ渡米を?
若いうちから働き、お弟子さんも抱えて、結婚もして、出産もして、お姑関係も学んで…と日本では一通りやり尽くしてしまったんです。
私のエネルギー量や好奇心は並みではなかったので、当時の奥様方とも価値観が合わず…。当時は80年代のバブル時期。ブランドバッグや高級車、有名私立学校への進学にステイタスを持つ風潮の中、私はあまり物質的な豊かさに魅力を感じなかったんでしょうね。おそらく叔父や叔母の影響なのか、喫茶店でお喋りしているよりも芸能界で仕事をしている方が性に合っているだろうなと。
そして、何より自分の子どもを国際的な環境で育てたいという想いがありました。それで離婚を決意し、単身で幼子を連れて留学することにしたんです。
修復した「かつら」でハリウッドからスカウト。現在は「アメリカズ・ゴット・タレントシーズン16」でヘアデザインを担当
――アメリカでの生活はいかがでしたか?
言語の壁、文化の差、生活スタイルの違い…。そういうことを知りたくてアメリカに渡ったわけなので、キツいのは大歓迎。「待ってました!」という感じでしたよ。
――すごいメンタル…。はじめはどのようなお仕事を?
仕事ではなく、ボランティア活動でした。
着付けや髪結といった自分の技術をみんなに知ってもらいたくて、今でいうSNSのようにお披露目の場をつくって発信していたんです。無邪気に「私はこれが出来るから見て!」ってね。まずは自分の積み上げてきた技術や意気込みを放出したかったんでしょうね!
――何がきっかけでハリウッドからお声が掛かったのですか?
アメリカ人って発想力がすごいんですよ。着物も胸元を大胆に開けて着崩すし、おはしょりもあったもんじゃない(笑)。日本の帯をインテリア感覚で壁に飾っている光景を見たときは衝撃でしたね。「こんな使い方が出来るんだ」という自由な発想力に感服すると同時に、「日本文化が侮辱された」という腹立たしさもありました。
日本の伝統文化を完璧に習ってきた自分にとってアートとして受け止める柔軟性がなかったんです。
骨董屋さんで粗末に置かれたかつらを見たとき、ついに我慢できなくて「直させてください」と言ったんです。それで次の日、65ドルだったかつらが600ドルになっているの(笑)。店主さんが「君が格好良くしてくれたからね。あんなにボロボロなかつらをパッと直せるなんてすごいね」と褒めてくれたんです。
実はその骨董屋さん、映画会社への小物貸しが本業だったようで、「2年後に『SAYURI』という映画を出すんだけど、君の力を貸してほしい」とスカウトされたんです。それでハリウッド映画の着物コンサルタントとして採用されたわけなのですが、はじめてハリウッドの世界を目の当たりにして「私はここで一生働こう」と思いましたね。人生が一転しました。
ハリウッドは秒単位で動く世界。「執着」は命取り
――ハリウッドの撮影現場はいかがでしたか?
自分の認識では、器用貧乏暇なしのような「日本人」でした。上下関係やマナーに厳しい古典的な世界で働いていたから、最初はアメリカ人に順応していくのが大変で…。日本流の気遣いや優しさが仇となる瞬間はいつも涙がこぼれそうになりました。
例えば、休憩中に掃除や整頓をしていると「Don’t work!」とすごく怒られるんです。なぜなら休んでいる人間が不真面目に見えるし、清掃員さんの仕事を奪ってしまうから。それが理解できずに「整理整頓が仕事がはかどるので」「良かれと思ってやってあげたのに何で?」と、今思えば本当に自己中心的でしたね。日本人にとっての当たり前がアメリカでは迷惑になることを理解するまでに数年を要しました。
――『SAYURI』を経て、なぜヘアスタイリストに転身を?
ハリウッドの組合に加入する際、衣装・メイク・ヘアの中から一つを選ぶシステムだったのですが、ヘアでしかアメリカ人には勝てないと思っていたし、逆に彼らにないものを持っていると思っていたので。
――日本で培ってきた「髪結」を武器にしようと?
そうですね。着付けの帯結びの発想から、髪の毛を編んだり結んだり、またはなめらかな艶だしや、見えない部分へのこだわりなど、ヘアーピンを使わなくても「元結」で結い上げることができたことです。やがては撮影業界で立体的な3Dデザインを生み出すチャンスに巡り会い、多くの賞に輝くことにもつながりました。
――元結の技術から派生し、様々なヘアスタイルに挑戦されたのですね。
そもそもハリウッドでは日本のように一つの技法にそれほど執着しないんですよ。一分一秒で流行は動いているし、その時その場の感性でスタイルを生み出さなければやっていけない世界なんです。
――ハリウッドでは瞬発力が求められるのですね。
瞬発力がなければ絶対に無理ですね。アメリカは常に「先へ、未来へ」という文化ですから。
私も同じ技法・同じスタイルをただ繰り返してきたわけではありません。もともと一つのものに執着するような性格ではなく、自分のつくったスタイルが世間で注目される頃には、すでに次の仕事に移行しているんです。
撮影業界では自分の置かれた状況の中で「今、何ができるのか」を瞬時に読み取り、変化に対応し、コンセプトを理解し、等身大のありのままの心粋を表現しながら、仕事をするスタンスを保つ。
そして、気の置ける仲間だけでなく、舞い込んでくる仕事もジャンルにこだわらず受けていましたね。いつも同じ場所・同じ人・同じ考え・同じスタイルでいる方が居心地は良いし、楽ですよね。もちろん一つのことを励行することも大切なことですよ。けれど、変化を求めて新しい環境に飛び込んだ勇気や失敗は、自分の感性をさらに広げてくれると思うんです。
私は積極的に環境を変えることで、挑戦力や対応力、技術力を養ってきたつもりです。
――徳永さんは知らない世界に飛び込むことも躊躇せず?
現場が変わるたびに「次はどんなユニークな人たちに出会えるんだろう」とワクワクします。しかも、撮影以外の顔は学校運営者や美容サロン経営者でもあるので、どちらかというとリーダー気質なタイプ。「あなたは端っこに座ってて」とあしらわれても、いつの間にか音頭が取れるし、頼ってもらえるための工夫や努力を楽しみながら重ねています(笑)。
「あなたはアメリカ人よりも逞しい女性だ」「ベストリーダーだよ」と言ってもらえることが増え、ようやく自分はたくさんのものを神様から頂いたのだと気づきました。それからは、徐々にどのように世の中に還元できるのだろうか? と思うようになり、考え方も性格も次第に変化していきはじめたことに気がつきました。体は老いても「心は果てしなく成長できる」楽しみを発見できました!
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徳永さんはまさに「これから」を生きる方。未知の世界に臆することなく、ハリウッド業界でご自身のポジションを確立していきます。後編では、ハリウッドの厳しさとともに、仕事に向き合う姿勢を教えていただきます。徳永さんがパワフルに仕事しているのも、そして今回の取材を快くお引き受けくださったのも、自分の「使命」を大切にしているからなのだそう。
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/柴田大地(fort)
撮影協力/BASE Beauty Lounge
Profile
徳永優子(YUKO T.KOACH)さん
KCビューティーアカデミー アートデレクター。また、数多くのハリウッド映画で活躍するヘア&メイクアップアーティスト。アメリカのエミー賞へ4度ものノミネート、マイケル・ジャクソン氏の『スリラー』3D版のヘアを手掛けるなど、大きな功績を残してきました。「KCビューティーアカデミー」を創立し、世界に通用する後進育成にも精力的。
HP:KCビューティーアカデミー