「これからヘアカラーの時代が来る」この言葉に導かれてカラーリストに 私の履歴書 【kakimoto arms AZABUDAI HILLS・ヘアカラーマネージャー 岩上晴美さん】#1
カラーリストという職業を日本に定着させ、パイオニアとして卓越した技術を惜しみなく広めている岩上晴美さん。kakimoto armsに入社したときはスタイリスト志望で、カラーリストになる気持ちは1㎜もなかったのだとか。
前編では、岩上さんがいやいやながらカラーリストになろうと決めたきっかけ、日本でもヘアカラーが定着してきたこと、順風満帆だったキャリアが一気に崩れて留学を決意したことについて伺います。
IWAKAMI’S PROFILE
- お名前
- 岩上晴美
- 出身地
- 茨城県
- 出身学校
- 山野美容専門学校
- 憧れの人
- 柿本榮三
- プライベートの過ごし方
- エクササイズ 予約困難店巡り
- 趣味・ハマっていること
- 旅
- 仕事道具へのこだわりがあれば
- 自分が使いやすく心地いいと思うもの
練習がイヤでサボってばかりのアシスタント時代
――岩上さんはもともとヘアカラーに興味はあったんですか?
とんでもない! 私が美容学校に進学した頃、髪を染めているのはとても珍しくて特別な人だったんですよ。
――特別というと?
バンドをやっているロック系のミュージシャンとか、ちょっとやんちゃな不良とか(笑)。普通の方が髪を染めるといえば、白髪染めを思い浮かべるのが一般的な時代でしたから、「髪を明るくしたい」という方たちは、へアマニキュアでツヤを出していました。
――ということは、岩上さんはスタイリストになりたかったんですね。どうして美容に興味が?
すごく幼い頃から「海外で働きたい」ってずっと思っていたんです。特に理由は思い出せないのですが。それで海外で働くにはどうすればいいかを考えて、最初は服をつくるデザイナーになりたいと思ったんですが、それは無理だと(笑)。次に考えたのが服のスタイリスト。その次がメイクアップアーティストでした。メイクをやるならヘアもできた方が良いだろうと思ったんです。3年くらいサロンで働いて基本技術を学んでから、海外で誰かのアシスタントになればいいと思っていました。
――本当に海外で働きたかったんですね(笑)。kakimoto armsに入社して、どんなアシスタントでしたか?
同期のなかでもいちばん練習をしない子で、遊ぶことや友だちを作ることに夢中でしたね。そのくせ負けず嫌いで、試験に落ちてはよく泣いていました。「泣くほど悔しいなら練習しろ」って、よく怒られたものです(笑)。
――そんな状態からどうやってスタイリストになれたんですか?
私が嫌いだったのはウィッグを使った練習なんです。カットにしてもパーマにしても、実際に人の頭でやると感覚が違いますよね。ウィッグの練習が終わってカットモデルを呼んだ実践段階になった途端、真面目に練習に取り組むようになりました(笑)。
――カラーリストになったきっかけは?
スタイリストデビューをする少し前に当時、社長だった現会長の柿本榮三から「カラーリストにならないか」と言われたんです。その頃のヘアカラーは、ヘビメタ系のロッカーとか特別な人のものでしたから「絶対にやりません。興味ありません」ってお断りしました。
――デビュー間もないときに社長から声がかかるって、期待されていたのでは?
先輩二人に声がかかって、最後の一人が私に。私は前々から言いたいことがあれば正直に言っちゃうし、おべっかも使えないんです。それが先輩たちには面白かったんだと思います。社長に「岩上がいい」って推薦してくれたようです。
――それがどうして心変わりを?
休日に茨城の実家に帰ったとき、祖父から「これからヘアカラーの時代が来る」って言われたんですよ。別に美容に興味があるとか流行に敏感だとか、おしゃれ好きとかではありません。田舎で農家をやっている普通のおじいさんが突然、そんなことを言ったんです。今から思えばちょっと神がかってますよね。大好きな祖父から言われて、「じゃあやってみるか」と決心しました。
人気サロンの技に触れ、カラーリスト道を究めることを決意
――カラーリストの育成はどうやって?
柿本がロンドンにあるヨーロッパ初のヘアカラー専門サロン「ダニエルギャルビン」のオーナーであり、カラーリストの第一人者でもあるダニエルにスタッフをkakimoto armsに派遣してほしいとお願いしたんです。カラーリストの仕事を間近で2年間も見て学ぶことができました。
――いちばん勉強になったことは何ですか?
パーマとカラーを同じ日にやってはいけないことです。それまで私たちは当たり前のようにパーマとカラーを同じ日に施術していましたが、「そんなことをしたら髪を傷めてしまう!」と言われてビックリしました。何度もサロンにいらしていただくのは「お客さまに申し訳ない」という気持ちだったんですが、髪のことを考えたらダメージを負わせる方が申し訳ないって。今では当たり前のことですが、30年前に知ることができて本当によかったです。
――髪を染めることが当たり前ではなかった時代に、お客さまにどう広めていったんですか?
ダニエル・ギャルビンの外国人スタッフがサロンにいるだけで目立ちます。その彼が、ホイルワークで髪を染めていると、ほかのお客さまは「何をやっているんだろう?」って、つい目で追ってしまいますよね。ホイルを外すとすごく立体的で自然な髪に仕上がっているのを目の当たりして、「私もやりたい!」っておっしゃってくださって。カラーをなさる方が少しずつ増えていきました。
――他にはどんなことを?
カラーリングをしたスタイルブックを作って、「本日は無料でやらせていただくので、いかがですか?」とお声がけしました。カラーをしていないお客さまに、地毛の色を変えずにハイライトをブレンドしていくやり方を説明すると、「そういうナチュラルなカラーもあるのね」って。1年も経たないうちに、たくさんのお客さまから支持していただけるようになりました。
「指名料が倍額」告知から来客が激減し、留学を決意
――カラーリストとして、どんどん忙しくなっていったんですね?
撮影の仕事やセミナーの仕事もいただけるようになって、カラーリスト3年目にして、仕事の面白さに目覚めました。こんなに必要としてもらえる仕事だったんだと実感できて、「このままカラーリストをやろう!」と思えたんです。
――充実していたんですね。
私を指名してくださるお客さまがどんどん増えて、多いときで1日30名はいらっしゃいました。中には自分のお客さまではない方もいて、どこにどのお客さまがいるか把握しきれませんでした。アシスタントが「あっち」「こっち」って誘導してくれるんですが、もう全然記憶に残ってない(笑)。マシーンのように働いていました。
――すご過ぎます!
そんな様子をみて社長が「岩上の指名料を倍額にしよう」って言い出したんです。そんなに支持されているなら倍にしても大丈夫だろうって思ったようです。
――いきなり倍額ですか!?
その当時、私は32歳ですから10年近くやってます。その間ずっと私を支えてくださった方に、「明日から倍額になります」って、言いづらかったですね。例えば海外で大成功をおさめてから「料金が倍額になります」だったら、まだお客さまも納得できると思います。「ずっと岩上さんにお願いしたいけど倍額は厳しい」って、ずっと担当していたお客さまを後輩に任せるようになりました。今振り返っても辛い思い出です。「必要ない」って刻印を押されたようで、自信を失いました。30代は自分の中でも絶望のときでしたね。
――どうやって気持ちを立て直したんですか?
いいタイミングだから海外へ行こうと思ったんです。私の最終目的地はニューヨークだったので、まずロンドンのダニエル・ギャルビンの元で働いてからアメリカに渡ってカラーリストをやろうと思いました。
――切り替えが早い!
その計画を柿本に伝えたら、「岩上は日本のカラーリストのパイオニアなんだぞ。イギリスに行ったら給料もビザももらえないだろう。岩上はそんな扱いを受ける人間じゃない!」って言われたんです。私も冷静ではなかったと思いますが、柿本との間で「辞める」「辞めない」のやり取りが続いて、結局、柿本が折れて「とりあえず2年の休みをやるから行ってこい」と言ってくれました。
――送りだしてくれて、よかったですね。
柿本がダニエルに連絡して、岩上がロンドンに行くから面倒を見てやってくれってお願いしてくれたようです。
柿本社長(現会長)のお許しを得て、ロンドンへ旅立った岩上さん。後編ではその後のご活躍について伺います。
撮影/松原敬子
Salon Data