「唯一無二」を志す僕が選んだ道は、ヘアメイクアップアーティスト 私の履歴書 【ヘアメイクアップアーティスト 伊森凱晴さん】#1

近年の美容業界では、男女を問わず多様性のあるワークスタイルを体現し、活躍の場を広げていく人が増えています。

今回お話しいただいた伊森凱晴(いもり よしはる)さんも、美容に関する仕事に携わりながら、既存の枠を超えたキャリアを築き上げてきた一人です。そんな伊森さんが軸に据えた職業は、ヘアメイクアップアーティストでした。

前編では、伊森さんがヘアメイクアップアーティストを志すまでの物語から始まり、その後のキャリアについて語っていただきます。ボーダーレスな働き方を実現するにあたっての、伊森さんの思考や行動の原理とは?

YOSHIHARU’S PROFILE

お名前

伊森凱晴(いもり よしはる)

出身地

愛知県

出身学校

名古屋モード学園 ヘア・メイクアーティスト学科

趣味・ハマっていること

「スマブラ(「大乱闘スマッシュブラザーズ」というテレビゲーム)! ほぼ人生です!(笑)オンラインで比較的強くなると対戦可能になる【VIP戦】があり、その中でも【魔境】と呼ばれる上位数%レベルに入れるほどのスマブラ狂いです。どんな人とか権威も肩書きも関係なく遊べるスマブラは、最高のコミュニケーションツールだと思っています!」

「クリエイティブ」×「コミュニケーション」=「ヘアメイクアップアーティスト」

他に類を見ない、独創的な働き方が特徴的な伊森さん。その原点を探っていくと、話は幼少期にまで遡る

——今やヘアメイクにとどまらず、デザイン・アート方面やコンサル・講習関連など多方面に活躍されていますが、まずは本業のヘアメイクアップアーティストを志したきっかけや経緯を教えてください。

この職業を目指すことにしたのは、幼少期から高校生までの学生時代や、家庭環境が影響していると思います。

愛知県内で引越しと転校を繰り返すという、複雑な家庭環境だったんです。保育園を2つ、小学校を3つ、中学はなんと4つも通いました。その都度同級生の友人を作るのも難しく、5つ下の弟やその友人たちとよく遊んでいました。度重なる転校は交友関係のみならず、勉強や部活動にも影響していたので、あらゆる場面において周囲との違いを感じることが多かったです。

「人と比べられたくない」「人と比べられないような唯一無二な存在になりたい」という欲求は、そういった原体験からじわじわと作られていったのかもしれません。転校については、高校入学と共に落ち着きました。

——高校時代は、どのような過ごし方を?

アルバイトに明け暮れていました。これにも理由がありまして。

当時、家のルールが厳しくて小遣い自体がなかったんです。その上、働いて稼いだお金の9割は家に納めなきゃいけなくて、小遣いになるのはたった1割だけ。そんな背景からアルバイトは最大で3つほど掛け持ちしていましたが、「来来亭」というラーメン店だけは3年間続けていました。

——なぜ、そこだけ続けたんですか? 時給が良かったとか?

時給は安かったです!(笑)店長や先輩が良い方ばかりで、働いていて楽しかったんですよ。

また、スタッフ同士のコミュニケーションやバックヤードに置かれている店独自の「情熱ノート」に書かれていた内容を通じて、接客における大切なことをたくさん学びました。接客業を好きになったのは、ここでのアルバイト経験が大きいです。

さらに、お客様やスタッフがどこで何をしているかという空間把握能力やメタ認知についても自然と身につきました。これは今、現場で仕事をする上でとても役立っています。

——いいバイト先に巡り合いましたね。

本当にお世話になりました。「来来亭」は今でも愛しています。

そのうちに進路を決める段階になりましたが、祖父が日本を代表する「ノリタケ」という陶磁器・食器ブランドのデザイナーをしていたことから、クリエイティブな仕事や自分にしかできない仕事がしたいと思うようになりました。当初は憧れていた美大への進学も考えたんですが、画家になるのはなんかしっくり来なくて。それを深掘りした時に、自分は人と関わることが好きだからだと気がついたんです。画家はクリエイティブだけど、他者とのコミュニケーションは少ないじゃないですか。自分はクリエイティブなことも人とのコミュニケーションも、どちらもある仕事がしたかったんです。

——どちらもあるお仕事、と言いますと…?

そんな時に思い出したのが、祖母の美容師という職業。しかし祖母の仕事の様子を見ていた自分にとって、美容師という職業は解像度が高すぎました。そこからさらに探すうちに、ヘアメイクアップアーティストに辿り着いたんです。美容師ほど業務内容が鮮明ではないからこそ、当時の僕の目にはクリエイティブに写りました。

——では、進路は美容系の専門学校ですか?

名古屋モード学園のヘア・メイクアーティスト学科に進学しました。

家が裕福ではなかったので、奨学金を最大限活用して数多くのことが学べる学校に行くか、授業料を抑えて通信制にするかの二択でした。地元の愛知県から岐阜県まで広げて美容専門学校をくまなく調べては全ての学校の体験入学に行き、見つけた瞬間「ここだ!」確信。

どうしてもここに入りたい。奨学金はフル活用しましたがどうしてもかかる初期費用を工面するべく、人生で初めて親に土下座しました。覚悟したことで自分に負荷をかけることになったのも、逆に良かったと思っています。

「もう、あれ以上はやれないわ」までやり切った時代

やっとの思いで入学した専門学校。展開は、そこでの日々や卒業後の就職先での様子に移る

——美容専門学生時代は、どのように過ごしていましたか?

当時の学生の誰よりも、積極的に動いた自負があります。親に土下座してまで入学した学校だったこともあり、未来で振り返った時に「もう、あれ以上はやれないわ」と本気で思えるくらいまでやり切るぞ! というマイルールができていました。

クラス委員だったので朝は始業より1時間ほど早く登校し、教務室に立ち寄って大きな声で挨拶したり、授業の少し前から教室に行き授業の準備をする機材係を請け負ったり。おかげで、講師の方々にも僕のことを覚えてもらえましたね。

もちろん技術の習得も手を抜かなかったので、成績は基本的にトップを維持。その上で、学内・学外のコンテストにも精力的に参加していました。

——学生時代の実績なども豊富そうですね。

僕がリーダーを務めた学内のグループ制作では学長賞とモード大賞を獲得、学外のコンテストではグランプリを獲った経験もあります。

また、あらゆる大学や専門学校の垣根を超えたチームを組んで出場できるという、「Zepp Nagoya」を舞台にしたファッションショーのイベントがありまして、そちらにも参加しました。一応ファッションショーの体裁ではあるんですが、僕が立ち上げたチームはヘアメイクショーで挑みましたね。総勢20名以上のチームでしたがここでもリーダーを務めていたので、マネジメントの経験も相当積めたと思います。今より無茶を言っていた記憶しかありませんが(笑)

学生時代の中でも、特に極めつけの実績は卒業時のことかな。

——詳しく教えてください!

母校には、各学科で優秀な成績を収め、学校への貢献度が高い人に授与される賞が存在します。そのトップである「学長賞」の次点の「校長賞」を受賞しました。

ファッションの分野から始まった学校なので、服飾関連学科の生徒たちが受賞するのが通例だったんです。そんな中で、当時まだ新設学科だったヘアメイクアーティスト学科の生徒が受賞したのは初という、異例の快挙らしく、獲った後で聞かされました(笑)

——素晴らしいご活躍ですね! 卒業後は、ヘアメイクアップアーティストとして就職を?

東京にある、テレビ系に強いヘアメイクの会社に就職しました。

当初は弟子入りしようと考えたヘアメイクアップアーティストさんがいたんですが、3年以上のサロン経験が条件でした。そんな時に見つけたここは、自社の美容室も持ち、テレビ局との関わりも深い会社で。ここでならサロン経験も積みながらヘアメイクの仕事もできる! と入社を決め、上京しました。3年働いたら辞めるつもりでした。

——そこでのキャリアを教えてください。

自社の美容室で教育カリキュラムをこなす傍ら、テレビ局等の現場でヘアメイクの仕事をする日々です。当時、周りはテレビの仕事がしたい人ばかりだったので、美容師の勉強もヘアメイクの現場も並行していたのは自分くらいでした。

しかし、そんな僕の日々の努力を、知らぬ間に見てくれていたんです。社長や先輩方にも目をかけていただき、毎日の自主的な居残り練習を見てもらっていました。その結果、1年半というほぼ最速でスタイリストデビューを果たしました。目まぐるしい日々が続き、気がついたらあっという間に3年経っていましたね。

——3年後には、先のヘアメイクアップアーティストに弟子入りを?

実は、ここで働くうちにその目標がなくなっていったんです。僕がこの仕事を選んだ理由の1つとして、自分にしかできない仕事がしたい、ひいては「唯一無二」な存在になりたいという気持ちがありました。しかし誰かの下に付いたら、真の意味で「唯一無二」とは言えなくなるのでは? と疑問に思い始めて…。結局、弟子入りするのは辞めました。今振り返って考えると、相当調子に乗ったことを言っていることもよくわかるのですが、当時は本気で悩んで考えていましたね(笑)

また3年目くらいから、ヘアメイクの現場を一人で任されるようにもなったんです。僕は絵を描くのが得意だったので、ハロウィンイベントのペイントメイクをきっかけにどんどん学び続けた結果、特殊メイクの案件などもいただいていました。時間的にも余裕が生まれ、さらなるスキルアップや人脈作りにも時間を割けるようになり、自分としても着実に力をつけている実感がありました。そのうちに「自分の力だけで挑戦したい」と思い、この会社を辞めることになります。結局、5年もお世話になっていました。

伊森さん愛用のメイク道具の一部
「朝早くから百貨店に並んで購入しました!」という伊森さんのお気に入りは、某キャラクターとコスメブランドがコラボした限定品のリップ

「自分は弱い」……人生初の無力感に打ちひしがれる

最初の就職先でも向上心のままに活動していた伊森さんに、次の転職先で訪れた転機とは…?

——その後は、フリーランスに?

そのつもりでしたが、東京・表参道にある某ヘアサロンのオーナーが僕を誘ってくださったんです。しかし、僕は美容師ではなくアーティストでありたかった。そのことを伝えると、出勤を義務としない新たな雇用形態である「アーティスト枠」としての所属を提案していただき、こちらに転職することとなりました。

——そこでの日々は、いかがでしたか?

当時の在籍メンバーがすごい人ばかりで、とても刺激的でした。キャラが濃くてスキルも高く、売上もバリバリ上げていて…。それに比べたら僕は全然稼げていないと、一方で焦燥感も抱いていました。

そこで、得意としていた特殊メイクの技術に磨きをかけるべく、現代美術家である特殊造形作家さんの下で1年間勉強させてもらうことにしました。

——特殊メイクと現代美術の造形が、どう結びつくのでしょう?

実は特殊メイクの道って、美術分野の造形を学んできた人が進むことが多いんですよ。むしろ僕のように、美容の分野から入るほうが少数だったんです。自分の特殊メイクのスキルを見直した時に「美術的な知識と経験が足りない」と考えたので、特殊造形作家さんの元に通って学ぶことにしました。

しかし、ここで僕は人生初の挫折を経験することになります。

——なぜですか?

本物のアーティストを目の当たりにしたことで、自分はただの手先が器用なだけの人間だったことに気付かされてしまったからです。常にアーティストであれと志していたものの、その肩書きを名乗れるほどの特別な存在ではなかったことを痛感しました。

しかも、ヘアメイクアップアーティストや美容師としても、同僚と比べて大した売上を上げられていなかったのも、ポジショントークのような逃げ道がなかった理由です。

——そんな……。

どちらも中途半端だったんです。専門学校を主席で卒業し、就職後には最速でスタイリストデビューした後、サロンワークもヘアメイクの現場もこなす日々の中で、あらゆる技術を貪欲に吸収していきました。自分はあんなこともこんなこともできると、万能感のようなものに浸っていたのだと思います。

それらが、ことごとく折れてしまった。「自分はこんなにも弱かったんだ」と、表参道の街中で、一人泣いた夜もありました。無力感に打ちひしがれる中で、調子に乗っていたそれまでの自分を一度全部捨てようと決意しました。

この挫折を、無事乗り越えられるのか?! 現在のようなボーダーレスなワークスタイルを確立するまでの彼の物語は、後編へ続く…

幼少期や学生時代から内省を繰り返し、自分のやりたいことや将来を見据えて志した道は、ヘアメイクアップアーティストでした。美容専門学校では優秀な成績を収め、卒業後も周囲から積極的に学んでいきます。持ち前の素質やたゆまぬ努力で、あらゆるスキルを身につけていった伊森さん。2つ目の職場での環境やその向上心の高さから、ついに人生初の挫折を味わうことに。後編では、その挫折を糧に導き出した伊森さんの思考プロセスやロジック、現在のボーダーレスな活躍の様子や仕事観についてお伝えします。

撮影/野口岳彦
取材・文/勝島春奈

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伊森凱晴(いもり よしはる)
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