居場所を築けず1年でサロンを退職。母に背中を押されて再び誓った、美容師としての成功【美容師 コーノヒロノリさん】♯1

ご自身の地元である大阪府八尾市に美容室「hair terrace sooH」を構える、コーノヒロノリさん。ボブ、ショートヘアなどカットを得意とし、お客様のライフスタイルに合わせたヘアスタイルを提案することで、幅広い年齢層からも支持を集めています。

コーノさんは元々、工業高校に進学し、父親の経営する工場を継ぐ予定だったといいます。しかし高校卒業後の進路を考えた際、人と接するのが好きな性格だったことから製造業には向いていないかもしれないと考えるようになり、美容師の道へ方向転換をします。

苦戦した就職活動を経て、やっと入社した美容室でもなかなか自分の居場所を築けず、新人時代は苦労の連続だったと振り返ります。

お話を伺ったのは…

コーノヒロノリさん

大阪府出身。工業高校を経て、美容師になることを決意。2社のサロンを経て、2019年に独立し、地元である大阪府八尾市に「hair terrace sooH」を立ち上げる。その1年後に脳腫瘍の1種である「グリオーマ」を発症し、1年間の治療を経て寛解。現在は八尾市の商店街で青空カットを行うなどイベントにも積極的に参加し、地域とのつながりを強めている。

Kohno’S PROFILE

お名前

コーノヒロノリ

出身地

大阪府

出身校

藤井寺工業高校(現:藤井寺工科高校)を経て、大阪ベルェベル美容専門学校

プライベートの過ごし方

映画、アニメ、マンガを見る

趣味

ファッション全般、ショッピング バレーボールの試合を見ること

ハマっていること

簡単な動画編集

憧れの人

どんなに大病を経験してもそれと向き合って、人生を楽しむ人全員。そんな人に自分もなりたいと思っています

人と接することができて「ものづくり」にも近い、美容師に惹かれて

現在は独立し、サロンオーナーでもあるコーノさん。元々は父親が経営する工場を継ぐつもりだったという

――美容師になろうと思ったきっかけから教えてください。

僕の美容師への道はまっすぐではなくて、元々は父が経営していた工場を継ぐつもりでいました。父は僕が20歳のときに亡くなってしまったのですが自宅の1階に工場を構えていまして、家を建てるときの補強器具や自動販売機の部品など、発注された部品を金型から創る仕事をしていたんです。

幼いながらに父親が自分で事業をしていることがなんとなく分かっていて、とくに何か大きなきっかけがあったわけではありませんが、跡を継ごうと考えるようになりました。小学校の卒業文集にははっきりと「父の跡を継ぐ」と書いていましたし、高校は工業高校に進んだんです。

――そうだったのですね。そこからなぜ美容師になったのですか。

高校卒業後の進路を考えたときに、本当に家業を継ぐことが自分のやりたいことなのかと悩んだからです。子どものころからとくに疑うことなく、家業を継ぐと思い続けてきましたが、話すことが大好きで、落ち着きもない自分には、機械相手に同じ作業を繰り返す製造業は向いていないのではないかと。恐らく自分はものづくりという点で工場の仕事に惹かれていたと思うのですが、美容師であれば人と接することもできますし、髪の毛をデザインすることはものづくりに近いことだと考え、美容師を目指すことにしたんです。

家業を継がないことに関しては父がどう思っていたのか分かりませんが、美容師として成功することを約束し、美容専門学校に進学することを許してもらうことができました。

――美容への興味は元々あったのですか?

明確に興味があったわけではなかったですね。高校時代にバレー部に所属していて、強制的に髪型が坊主だった時期があったのですが、だからこそ自分ができない髪型への興味のようなものがあったのかもしれません。本格的に美容やファッションに目覚め始めたのは、美容専門学校に入ってからだったと思います。

苦労した就職試験。やっとつかんだ就職先でも力を発揮できず、涙の日々

1社目に入ったサロンは1年で退職することになったが、現在でもオーナーの井上さん(写真左)と交流があるというコーノさん

――その後、美容室へ就職するまでの道のりは、順調でしたか。

いえ、就職試験になかなか受からず、順調とはいえなかったんです。3社か4社ほど落ちて、最終的に就職先が決まったのが2年生の2月ごろでした。最終選考まで残った会社もいくつかはあったのですが、内定が決まるところまではいくことができず……。悩んでいましたね。

当時、大阪の心斎橋や梅田、南船場など都心部で働きたい想いが強かったので、そういったサロンばかりを受けていたのですが、そうもいっていられないぞと。我が家は僕が専門学校在籍中だったときに父が亡くなっているのですが、下に妹と弟がいましたし、専門学校を出たのに働かないというのは家計に負担をかけると思ったので、家に近いサロンも選択肢に入れることにしました。

結果的に都心部にある北堀江のサロンから内定をいただき、無事に働き始めることができたときは、本当にうれしかったです。

――1社目のサロンへ入社されたときは、どのようなことを感じましたか。

始発で職場に行き、終電で帰るような生活で、体力的に厳しい面があったのと、自分では努力をしているつもりでも、周囲が求めているレベルにまで達していないことも多くて、毎日のように泣いていましたね。

自分では気づいていなかったのですが、空回りしていることが多く、周囲のスタッフともかみ合っていなかったのだと思います。結局1年ほどで退職することになってしまいました。

――そうだったのですね。

ただそのサロンのオーナーである井上さんとはいまだにつながりがあって、感謝をしていることもたくさんあります。送別会のときには「お店を辞めることが悪いことではなくて、周りを見ることも大切だと思う。辞めるからコーノくんがここにいないとは思っていない」と言ってくれて。

さらにそのときオーナーが使っていたハサミを手渡され、「これからも美容師を続けるのであれば、このハサミを使ってひとりでも多くの人を幸せにしてください。美容師を辞めるときに返しにきて」とプレゼントしてくれたんです。

今でも自分が美容師として仕事をしていけている根底の部分は、そのオーナーに作ってもらったと思っています。

退職後に生じた美容師への迷い。母の言葉で目覚める

コーノさんは1社目のサロンを退職したあと、再び美容師として転職するか悩んだという

――その後、転職活動をされたのですか。

いえ、すぐには転職活動をせずに、3ヶ月くらいは遊んでいたと思います(笑)。緊張の糸が切れてしまってちょっと休憩しようかなと。ただ遊んでいる間も心のどこかでは、このままでいいのかという葛藤がずっとあったと思います。そしてすぐに転職活動をできなかった要因のひとつに、本当に美容師に戻るのかという迷いもあったんです。

というのも、少しだけ美容師として働いてみて、当時は給料がとても安かったことが引っかかっていて。家計のことを考えると一般企業に転職することも視野に入れたほうがいいかと思い、母に「会社員として、転職した方がいいのかな」と聞いてみると、母から「何を言っているの。工場を継がない、美容師になりたいと言ってお父さんと約束をしたんじゃないの?」と言われて。

その言葉にハッとして、もう一度挑戦してみようと思い、転職活動を始めました。しばらく経ってから、心斎橋にあった2社目のサロンに就職を決めることができました。


後編では、コーノさんが美容師人生最大の壁だったと話す出来事について伺います。コーノさんは2019年に32歳で独立しますが、1年ほど経ったときに脳のがんである「グリオーマ」にかかっていることが分かったそうです。

闘病生活を経て病気は寛解しますが、その出来事によって考え方が大きく変わったといいます。

1
2


Check it

hair terrace sooH
住所:大阪府八尾市北本町2-12-30

この記事をシェアする

編集部のおすすめ

関連記事

近くの美容師求人をリジョブで探す

株式会社リジョブでは、美容・リラクゼーション・治療業界に特化した「リジョブ」も運営しております。
転職をご検討中の場合は、以下の地域からぜひ求人をお探しください。

関東
関西
東海
北海道
東北
甲信越・北陸
中国・四国
九州・沖縄