「いちばん文句が多い人」が発案した、世界初の美容液とパウダリーファンデーション。私の履歴書 【メイクアップアーティスト小林照子さん】♯1

現在88才のメイクアップアーティスト小林照子さん。照子さんといえば、ハッピーメイクで有名ですが、コーセー初の女性取締役を歴任された美容界のレジェンドです。

照子さんは、高校時代、演劇の裏方に興味を持ち、メイクアップアーティストを目指します。何千名の応募の中から6名が選ばれた超高倍率のコーセーの入社試験を、笑顔でパス! メイクアップアーティストになる夢を実現するため、あったらいいなという商品をどんどん提案していき、後に世界初となる美容液とパウダリーファンデーションの二大ヒット商品を生み出します。メイクアップアーティストとして、マーケティング部門の美容研究や美容部長として、多忙を極める仕事と育児の両立についても、桁違いのエピソードをお話いただきました。

TERUKO‘S PROFILE

お名前
小林照子
出身地
東京都
年齢
88才
プライベートの過ごし方
75才から始めた彫刻を楽しんでいます。ハシビロコウは、ネットの画像を見ながら彫ったのよ。
仕事道具へのこだわりがあれば
顔への化粧、からだ化粧への道具はものすごくこだわっています。

コーセーの面接は、笑顔で採用されたの(笑)

キュッと上がった口角と白い歯が印象的な照子さん。

――まず、照子さんが美容の道を志した理由を教えてください。

高校生のときに、山形の疎開先で演劇サークルの活動をしていました。表に出るよりも、衣装やメイク、舞台製作など裏方のほうがおもしろくて。おもしろさの中にも、いちばん苦労したのがメイクでした。悪役のおじいさんをつくりたいのに、シワを描くとかわいいおじいさんになってしまうんですよね。そのときに、メイクを勉強したいなと思ったのがきっかけです。

――高校卒業後、化粧品会社に就職されたのですか?

疎開先から東京に戻り、昼間は生命保険の仕事をしながら、夜間の美容学校に入りました。でも美容学校でメイクの勉強をしたのは、花嫁さんをつくるたったの一日だけ。これではメイクアップアーティストになれないと思って、ちょうどそのとき募集があったコーセーに応募しました。

――何千名という志願者の中から見事6名の合格者に入られたそうですね。

3名採用のところ、優秀な人が多くて、最終的に6名採用になったんです。応募者の中には、大学卒業の美人さんが多かったので、高校卒業のわたしは無理だろうなと思っていました。でも、コーセーという会社にご縁があったのね。約30人が残った3次面接では、それまでに感じたことのない、絶対負けないっていう意欲みたいなものが湧いてきたんです。履歴書には「負けず嫌い」と書いたような気がしますね。応募者同士の雑談でも、「コーセーは強気な女性をとろうとしてるね」なんていう会話をしたことを覚えています。

――高倍率の面接で採用されるために、なにか努力したことはありますか?

これは、もう運でしょうね。最終面接で、「コーセー化粧品を知っていましたか?」という質問に、当時はまだ有名な会社ではなかったので、正直に「知りませんでした」と答えたの。そうしたら、社長と専務の顔がみるみる曇るのが分かって。たまらず目をそらしたら、ふたりの後ろの棚に、なんとわたしが使っていた化粧品があったの。その商品名を言って「わたしこれ使ってます」と言ったら、「なんだ、知ってるんじゃないか」って爆笑が起きたんです。それにつられてわたしも大笑い。後に、採用されたセクションの部長に、「社長が、あなたの笑顔がいちばん良かったと言ってたわ」と聞かされて。だから、わたしは笑顔で採用されたの(笑)。運がよかったのよね

インタビューは、照子さんが学園長を務める青山ビューティ学院高等部の一室で。

――笑顔が決め手で採用されたなんてすごいですね!! コーセーでは、まず美容部員からスタートされたのですか?

美容部員を指導するセクションに採用され、まずは現場を知るために販売店をまわりました。山口県には、コーセーを開拓するにあたって非常に力になってくれたお店がたくさんありました。でも、美容部員にとっては試練の場。販売店から押し返される美容部員が続出する中、つなぎで新人のわたしが出張を命じられました。

3等列車で2日間かけて山口県に入り、一日一店舗ずつ25店舗をまわりました。そして2日かけて東京に戻り、出張報告。新人のわたしが、山口から返されることなく、最初の一か月を無事終えることができたんです。

――新人のときに、すでに才覚があったのですね。その後も山口へ行くことになるのですか?

一日だけ東京で休みをとって、翌月また山口へ。そこでお客様にメイクやマッサージをするんですが、マッサージの最後に、ファンデーションの色を明るくしたり、チークをちょっと入れたり、お客様も気づかないようなメイクをするんですね。そうすると、「マッサージでこんなにきれいになるのね」とお客様にも喜ばれて。使用した商品をカルテに書いておくと、お店がそれを売ってくれるので、わたしが直接売らなくても山口県では商品がたくさん売れたんです。そして、翌月訪れるとまたお客様が増えている。多いときは、朝から行列ができて、食事抜きで一日100人対応したこともありました

美容部員時代の照子さん。まなざしは真剣そのもの。

――一日100人!? 手がしびれてしまいそうです。

わたしはメイクアップアーティストになりたくて、そのわたしにメイクをしてほしいという方がそんなにたくさん押し寄せてくれて、本当に充実した2年間でした。その頃はもう、マッサージしただけでメイクアップをしなくてもいいくらい上達してきてね(笑)。山口県の2年間は、メイクアップアーティストになるための勉強がいちばんできた時期でした

その代わり、恋人も全部失ったわよ。恋人が見送りに来て、迎えに来て、見送りに来て、迎えに来て、見送りに来て、迎えに来ない…ということが起こったわけ。最後の手紙には、「見捨てられた少年ノボルより」って書いてありましたよ。どこか探せば、当時のボーイフレンドが山口県に送ってくれた手紙が出てくるんじゃないかしら。

美容液は、わたし自身が欲しくて提案したものなの

コーセーの新製品発表会。照子さん32才のとき。

――コーセーでは、数々のヒット商品の開発も手がけられました。

2年間販売店にいたので、他社にはあって自社にないものが分かっていたんですね。当時の研究者は、ほとんどが男性でしたから、女性が本当に望んでいるカバー力やツヤ感がどういうものなのか、その感覚が掴みにくかったんですよね。ファンデーションは6色あるけど、そのうちの半分は使いにくいなど不満も多かったんです。自分本位かもしれませんが、わたしがメイクアップアーティストになるために、こんな商品が欲しい。それをどんどん言葉にしていったら、「いちばん文句が多い人」というレッテルを貼られて(笑)。それで、マーケティング部門に抜擢されたんです。そこで懸命に新商品を提案し、その中からヒット商品が生まれていくわけですね。

――世界初の美容液を開発したのは、照子さんなのですよね?

いまとなっては、美容液はどの化粧品会社にも何種類もありますが、当時は美容液という言葉も、美容液というジャンルもありませんでした。美容液は、わたし自身が欲しくて商品化を提案したものなの。ちょうど娘が生まれたばかりのときで、美容部長としてメイクアップアーティストや宣伝部の仕事を掛け持ちしていて、仕事も多忙を極めていました。

美容部長は、人前に出てご挨拶をする機会があるんですが、他の大手化粧品会社の美容部長は宝塚の大スターや女優さん。でも、コーセーの美容部長は帽子も被ってないし、上品でもない。結婚すると女は使い物にならないとか、子どもを持つと女はダメだとか言われることが多い時代でしたが、後に続く者のためにも、そうは言わせたくなかった。だから、夜中まで働いても翌朝疲れを見せないアイテムが欲しくて、自分自身のために開発したのが美容液なんです

75才で始めた趣味の彫刻。ハシビロコウの目線が色っぽい。

――商品化までにはご苦労もあったと思います。

研究所の男性には、「こんな商品つくったことがない」とか、「湿潤剤を40%も入れたことがない」とかいろんなことを言われました。でも、反対派の人と徹底的に意見交換をすると、そこまでわたしは考えてなかったなという気づきがあるんですね。それが自分の主張に奥行きを生むことを発見したんです

「そうそう」と頷いている人たちは、反対意見にも「そうそう」と頷いていたりするの(笑)。ガンガン反対意見を言ってくる人=パワーがある人だから、分かり合えたときには、実は強い味方になってくれるんです

――世界初のパウダリーファンデーションも、照子さんの発案なのですよね?

はい、そうです。当時、NY、パリ、ロンドンの影響は非常に大きく、ミリタリィルックやミニが流行しました。エレガントな女性がよしとされていたのが、大股で歩く女が嗜好されていく。とすると、小顔やショートカット。そのためには、小麦色、立体感。ファンデーションで小顔に見せる。

これからは働く女が主流になり、わたしも働く女に味方したいと思っていたから、そうすると時短ですよね。それまでは、乳液、下地、リキッドファンデーションをつけて、最後にパウダーをはたいていましたが、それを一体化させたのがパウダリーファンデーションです

さらに、外出先でメイク直しするためには、コンパクトなほうがいい。それまでは鏡台の前で化粧するために、デコラティブなデザインが主流でしたが、パッケージは「軽薄短小」が採用されました。

――当たり前に使っているパウダリーファンデーションの開発者が目の前にいらっしゃる照子さんだなんて、感動です!

リキッドファンデーション、クリームファンデーション、お粉。この3種類しかなかったところに新たに、パウダー(顔料)を油分と水分で湿めらせてプレスしたパウダリーファンデーションが加わったんですね。では、これをなにでつけるのか。当時は筆が高かったので、ラバースポンジをつけたんです。ラバースポンジも、ぺしゃんこなものだと仕上がりがよくないので、中に空気が入るようにしたの。そのスポンジがつぶれないように、容器にもものすごくこだわって、最初のパウダリーファンデーションは卵のような丸みのある形をしていました。

わたしの子育ての基準は、「子どもが死なないこと」

娘のひろ美さんをおんぶする照子さん。貴重な画像をご提供いただきました。

――照子さんは、美容研究家の小林ひろ美さんの母でもありますが、仕事と育児の両立についてお聞かせください。

当時の保育園は10時~16時と短時間だったので預けることができず、2~3名の保育ママさんを頼っていました。でも、保育ママさんが家庭の用事で都合が悪くなると、当日の朝お断りの電話がくるんですよね。「さあ、今日どうしようか」と、いつもそういうジレンマを抱えていました。だから、娘がいちばん最初に発した意味のある言葉は、「どこに預けようか」だったんです(笑)。わたしが電話が終わるのを待って、娘が「今日どこに預けようか」って。そのときは、本当に「ごめんね」と思いましたね。

――子どもの預け先は、いつの時代も働くママの悩みの種ですね。

ホテルでの会合に、やむを得ず4才の娘を連れて行ったこともあります。娘に「ロビーで遊んでなさい」と言ってわたしが会議室に入ると、一度だけ「20円欲しい」と言ってきましたが、その後は戻ってこなかったんですね。わたしも仕事に気を取られて、帰り際に「あなた、お子さん連れてなかった?」と言われて、慌ててロビーを探しましたが、娘がどこにもいないんです。フロントの方に聞いたら、「新婚さんと卓球してましたよ」と。遊び疲れた娘は、新婚さんのお部屋で寝ていたんです。

――ホテルのゲストのお部屋でですか? ドキドキのエピソードですね(笑)

新婚さんが本当にいい方でよかったんですけど、あの時代、誘拐とかなかったんでしょうか(笑)。わたしが忙しくしていたので、危険なこともいっぱいありました。わたしの子育ての基準は、「子どもが死なないこと」なんです。いまこれをしたら、子どもが死んでしまうか、それとも大丈夫か、それを基準に子育てしていました。

――現在と比較すると、かなりたくましい育児のように感じます。

ぐっすり眠る娘を乗せたタクシーの中で、娘のハンドバッグをそっと開けてみたら、生理用ナプキンが2枚入ってました。お菓子が出てくると思って自販機に20円を入れたら、これが出てきたのね。食べられないと思ってバッグに大事にしまったんでしょう。それを見たときは、本当に泣けてきました。

新婚さんとは、その後、長くお付き合いが続きました。とくに男性のほうがわたしの仕事にすごく興味を持ってくれて、ファッションショーを観に来てくれるほど仲良くなったんですよ。

後編では、コーセー初の女性取締役就任、独立、そして「青山ビューティ学院高等部」学園長として若い世代に伝えたいことなどをお伺いします。

撮影/山田真由美
取材・文/永瀬紀子

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