練習、分析、行動力! 人の倍進む努力でがむしゃらに走り続けた若手時代【LANVERY代表 菅野太一朗さん】#1
カリスマ美容師ブームを駆け抜け、有名店で総店長まで務めた菅野さんが、表参道にLANVERYをオープンさせたのは2016年のこと。コロナ禍にも負けず、美意識の高い大人の女性たちから支持されるサロンとして人気を集めています。
前編では、そんな菅野さんが今までたどってきた経緯や、独立に至るまでのストーリーをお聞きしました。
お話を伺ったのは…
LANVERY代表 菅野太一朗さん
都内2店舗を経て独立。2016年、表参道に「LANVERY」をオープン。ビューティ、ホリスティック、ウェルネスをコンセプトにしたサロンは、人生をより豊かに、自然体な美しさと共に歳を重ねていきたいと願う大人の女性たちから支持を集める。カットはもちろん、専属スパニストによるヘッドスパメニューも好評。
TAIICHIRO’S PROFILE
- お名前
- 菅野太一朗
- 出身地
- 福島県
- 年齢
- 48歳
- 出身学校
- 東京マックス美容専門学校
- 趣味・ハマっていること
- サーフィン、読書
- 最近読んだ本
- 「日本でいちばん大切にしたい会社」シリーズ
練習に明け暮れていた修行時代。試験は必ずものにして人の倍進む
――美容師を志したきっかけは?
中学の頃から美容室で髪を切ってもらっていて(床屋じゃなくてね)、自分にとっては美容師がわりと身近な存在でした。当時のその美容師さんの影響もあり、挑戦してみようと思ったのが始まりです。
進路を母に相談したところ、快く後押ししてくれたのですが、実は母も昔美容師を目指したことがあったと、あとから知りました。その夢は事情があって叶わなかったそうですが、自分がその想いを継げたのかなと。
――修行時代のお話をぜひ聞かせてください。
美容学校を卒業して最初に働いたサロンは、カッターとカラーリストが両方いる都内のお店。美容師を長い目で見た時に、基礎がしっかりできた方がいいのかなと考えて入社を決めました。
早くスタイリストになりたかったから、とにかく練習の日々でしたね。試験は一日に2回受けられて、みんな1つ受かればよしよし、というところを2つずつ確実に合格して人の倍先に進む。とにかく試験を落とさないようにがんばって、突き進みました。
――すごい熱量! デビューも早かったのでは?
ジュニアスタイリストまで行って、そこから一回転職しています。
最初のサロンは職人系というか、あまりメディアに露出するようなお店ではなかったんですね。時代としては、「カリスマ美容師」という言葉が注目され始めたころ。やはり時代はこれからそういう盛り上がりを見せるのかなと肌で感じ、新たなサロンでまた挑戦しようと決めました。
「誰もやっていないことをやろう」と決心。ブックを作って売り込みに
――2つ目のサロンは誰もが知る有名店ですよね。かなり忙しかったのではないですか?
当時はお店が14時オープンで、夜23時まで営業。片付けをして、そこから自分の練習が始まるんです。朝4時くらいまで練習して、いったん家に帰り、仮眠をとってまた午前中には出社するという。睡眠時間の平均は3〜4時間だったかなぁ。
もちろんサロンが終わって帰るメンバーもいましたけど、僕は早く一人前のスタイリストになって売れたいという気持ちが強くて、練習に明け暮れていました。
――またしても練習の鬼! やはりライバルも多かったのでは?
そうですね。同期も先輩もとにかく人数が多かったので、ライバルはたくさんいました。晴れてスタイリストになっても、そう簡単にお客さんはつかなくて、じゃあどうすればいいか? と考えるわけです。
SNSはまだなかった時代。雑誌などの撮影が多くて、そこに露出していくことがお客さんに知ってもらえる一つの方法でした。ただその撮影ですら、なかなか担当させてもらうことができない。
――どんな風に自分を売り出していったのですか?
「誰もやっていないことをやろう」と決めました。まず自分のヘアスタイル作品のブックを作って、それを撮影の現場で編集の方やライターさんに見てもらおうと。
自分が撮影をもらえる機会も最初はなかったので、先輩の撮影のモデルを用意することを条件に、現場にアシスタントとして同行させてもらって、チャンスがあったらブックを見ていただけますか!とお願いして。それを地道に繰り返して、だんだん知ってもらえるようになりました。
――売りにしていたポイントはありましたか?
何かに特化してしまうと逆にいろいろと限定されてしまうかなと思い、とにかくあらゆるジャンルのヘアスタイルを網羅しようと徹底的に研究しました。
雑誌はひと通り読んで、このジャンルの人気のモデルは? ヘアはどんな感じ? 流行りのファッションは? それらを広く分析した上で、 よりターゲットに合うスタイル提案ができるように。技術以外に、そういうトレーニングもがんばっていましたね。
――最終的にどのくらい在籍していたのですか?
16年です。店長になって、僕がいた頃には全部で4店舗あったので、それらを統括する総店長というのを任せられていました。
――独立しようと考えた理由は?
母体が大きかったので、総店長といえど中間管理職。経営陣一人一人の方針もいろいろあって、それを現場に落とし込むのは複雑だったり、歯痒いこともありました。意思決定が難しく、もどかしい。
だったらプレイングマネージャーでなく、プレイングオーナーになろう。自分でちゃんと意思決定して作っていける、そういうスタイルを目指すなら独立が一番いいのかなという判断でした。
40歳で独立。大人世代も満足できる新しいサロンを目指して
――前サロンを辞めてからオープンまでの道のりは?
知人のサロンを間借りして、フリーランスで働きながらオープン準備をしていました。長いこと大型店にいたのでフリーというのも新鮮でしたけど(もちろん大変さもあって)、その時につながった良い縁もいろいろありましたね。
完全に自分一人で独立しましたから、全て一からスタート。その知人を始め、多くの方々のサポートに感謝しています。
――サロンの場所も空間も気持ちがよく、素敵なところですね。
ずっと原宿、表参道界隈で働いてきたので、自分のサロンも同じエリアでやろうと思ってました。元々はオフィス仕様のテナントで、ここもまた絶妙なタイミングでご縁があって入ることができたんです。
――お客様の年齢層は?
40代〜の女性が多いですかね。長い方だと(前サロンから)もう20年以上担当しているお客様もいまして。自分も同じように歳を重ねていく中で、大人世代もきちんと満足できるようなサロンにしたい。
なので店の広さ的にはあえて小さめで、スタッフは少数精鋭。落ち着いた雰囲気でしっかりサロンケアを受けもらえるような空間作りを目指しています。
ライバル多き大型店で努力し、切磋琢磨してきた菅野さん。後半では、そんな菅野さんの想いが詰まったサロンについてをさらに詳しく。そしてこれからの美容業界の展望、働き方などについてもお聞きします。
取材・文/青木麻理(tokiwa)
撮影/高嶋佳代