ロンドンで師匠との出会い。何かを成し遂げてから帰国するためにDADA(現DADA CuBiC)に参加 【VeLO /vetica代表・鳥羽直泰さん】#1
「VeLO」「vetica」代表・鳥羽直泰さんがつくりだすヘアスタイルの美しさは、お客様だけでなく、同じ美容師たちをも魅了します。そんな鳥羽さんがスタイリストデビューをしたのはロンドン。持ち前の好奇心でロンドンに渡ったあと、英語が話せないという壁もタフに乗り越えます。そしてその先に、とても大切な出会いがあったようです。
前編では、好奇心と自立心溢れる東京生活時代、イギリスでの生涯の師匠との出会い、クリエイティブチーム「DADA(現DADA CuBic)」での活動について語っていただきました。
TOBA’S PROFILE
趣味と仕事が共存する仕事に憧れて
――鳥羽さんが美容師を目指したのは何がきっかけだったのですか?
きっかけになったのは僕が通っていた床屋さん。ご主人の趣味要素が満載なお店で、いわゆる「THE・バーバー」ではなく、趣味部屋が床屋と同じフロアにあり、遊びと仕事が融合している感じで、趣味と仕事がリンクしている生き方って楽しそうだなと純粋に思ったんです。床屋ではなく美容師を選んだのは、かっこよく見えたから(笑)。
ものづくりが好きだったこともあり、高校では美術部にも入っていたのですが、美容学校への進学が決まり、いざ高校を卒業するという局面で、美術部の友達が「美大にいく」と言い出して。「ちょっと待って。美大に進むっていう選択肢もあったのか…」とそこではじめて気づくという(笑)。だから、先に「美大」という選択肢に気づいていたら今こう やって美容師にはなっていなかったかも。
――美容学校への進学を機に上京を?
そうなんです。でも、最初父親には上京を反対されました。「美容学校はどこでも一緒。だからお金がかからなくてすむように地元の学校にしなさい」と。
でも、流行の最先端は東京。ということで僕は頑なに東京の学校にこだわりました。東京には実力のある人が集まってくるし、情報量も多く、美容室に来店する客層も幅広い。そういう環境に身を投じて、自分がどのくらい通用するのか試してみたかったんです。
僕、好奇心が旺盛だったんですよ。
好奇心が勝り、ホームシックとは無縁の東京生活
――東京での学生生活はいかがでしたか?
カルチャーショックの連続でしたが、僕にとっては全てが楽しかったです。
一人暮らしにしても「洗濯ってこうやるんだ」「こうすれば節約になる」と新しい発見ばかりで、日々の生活から学べたこともたくさんありました。底知れぬ好奇心と自立心のおかげでホームシックとは無縁(笑)。田舎に帰らなくても全然平気でしたね。
美容学校もキャラの濃い友達や先生ばかりで楽しかったです。髪の毛をいじるのは初めてのことだったので、何を学んでも新鮮でした。
ただ、1年学校に通ったあとのインターンはキツかったですけどね。当時は先輩と後輩は主従関係でしたから。師弟関係ではなく、神と僕みたいな(笑)。今のようにパワハラやモラハラという考え方はなく、先輩に口答えしようものなら…という時代。毎日ボロクソに言われ、いつも反省会でした。
――よく下積み時代を乗り越えられましたね。
自分の性格的に、遠回しに言われるよりもボロクソに言われる方がわかりやすくて良かったみたいです。未熟なときに、怠けたくなりそうな自分に厳しくしてくれる人がいるという環境は大事で、僕はパワハラを良い意味で捉えていますよ。
とはいえ、自分のサロンではハラスメントにならないように、教え方は色々考えていますけど…。
ロンドンで師匠に出会い、DADA(現DADA CuBiC)の活動に参加
――なぜ渡英を?
好奇心ですよね、やっぱり。
僕が勤めていたサロンの店長が、当時ヴィダルサスーンの講師の仕事をしていて、「経験のために、ヴィダルサスーンのコンテストに出なさい」と言われて。参加者が多く、テレビ局の取材も入るほどの大規模なコンテストに、まだアシスタントだった自分が出ることになったんです。
当日、そこで僕が衝撃を受けたのは他のライバルたちのカットよりも、クリエイティブチームによるヘアショーでした。「こんな世界があるんだ…!」と。
僕、映画やファッションといったイギリスのカルチャーが好きなんですが、ヘアショーを見てそれらとリンクしちゃったんです。「やっぱりロンドンって良いな!」と、勢いでサスーンの本拠地へ留学を決意しました。
それから1年ほどお金を貯めてから渡英したのですが、僕の考えは甘く、大変な苦労をしました(笑)。
――その苦労とは?
まず、現地に行ってから「俺、英語を勉強しないで来ちゃった」と気づいて(笑)。お金を貯めるために美容室とバイトを掛け持ちしていたので、英語を勉強するという発想が抜け落ちていたんです。おまけに学生時代、英語は赤点。入国の時点でつまずきましたね。
サスーンの学校がはじまるまでに2ヶ月間の猶予があったので、語学学校をすぐに探し、ひたすら英語漬けに。他の日本人生徒とはなるべく話さず、外国人とだけコミュニケーションを取り、家に帰ってからも意地でも日本語を使いませんでした。
おかげで、サスーンに入学する頃には何とか問題ないレベルまでリスニングが上達し、卒業する頃にはある程度長文で受け答えができるまでになりました。
――学校卒業後も現地で働こうと思われたのは自然の成り行きだったのでしょうか?
いえ、全然。もともと親とは「一年間だけ」と約束をしていて、オープンチケットを買っていました。帰国する日が最初から決まっていたので、帰らざるを得ない状況だったんですよ。
でも、出会ってしまったんです。のちの師匠となる植村隆博に。
――植村さんとの出会いについて、詳しくお聞かせください。
僕の先生が植村と一緒に仕事をしていた人で、「面白い日本人の生徒がいる」と僕のことを彼に紹介してくれたんですよ。そのあと植村に会い、「今DADAというチームを立ち上げているんだけど、興味があるなら一緒にやらないか」と誘ってくださったんです。「海外旅行気分でこのまま帰るか、イギリスで何かを成し遂げて帰るか、お前はどうする?」と、半分脅し混じりに(笑)。でも、実際に植村の家に遊びに行き、作品などを見せてもらったときに「面白そうだな」と、また好奇心が勝っちゃったんです。
ロンドンに残ると決意したものの、お金はすっからかんだったので、美容室に勤めながらDADAの活動に参加することにしました。
――DADAではどのような活動を?
会社としては成立していなくて、創作活動がメインでしたね。自分たちがかっこ良いと思う作品をつくったり、テクニックや美しい撮影を追求したり。ファッション業界の人や踊りをやっている人たちとコラボすることもあれば、学生のイベントを手伝うこともありました。
――植村さんは相当厳しい方だったと。
サスーン史上、日本人としてディレクターになった人は植村以外に数人しかいませんでした。20〜30年にやっと一人輩出されるというレベルだったので、僕にとって植村は神でした。何もかもが勉強になることしかない。
植村は厳しい人でしたが、自分にもめちゃくちゃ厳しかったので、僕は全幅の信頼を寄せていました。カットの仕方も一から十まで教え込まれましたね。
――イギリスには5年滞在。なぜ帰国することに?
DADAが日本に構えたサロンがあまりにも忙しくなってしまったので、一旦ロンドンから撤退し、日本での活動に専念することになったんです。
もともとは大陸を旅しながらゆっくり帰りたいと思っていたのですが、植村に言われるがまま荷物を持たされ、すぐさま帰国させられました(笑)。
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人並み以上の好奇心と、苦労を前向きに捉えるタフさで下積み時代を乗り越えてきた鳥羽さん。さらに、ロンドン留学と師匠となる植村隆博さんとの出会いで、美容師としての可能性が大いに広がったのですね。後編では帰国後のギャップに苦労したこと、独立にまつわるお話、鳥羽さんが考える教育論について語っていただきます。
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/柴田大地(fort)
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