バンドも人生も自分の力で動かしてきたんです 私の履歴書 Vol.33【Lily 田村貴博さん】#1
予約が取れないサロン「Lily」のオーナー 田村貴博さんは、前職がヴィジュアル系バンド「ν[NEU]」のリーダーという異色の経歴の持ち主。なぜヴィジュアル系バンドから一転、エステティシャンになったのか。
前編では、学校に行くことができず苦しんでいた幼少時代、音楽に全てをかけたヴィジュアル系バンド時代、そして今のサロン「Lily」を立ち上げるきっかけを伺います。逆境が多く過酷な過去であるにも関わらず、笑いを交えながら丁寧に語ってくださいました。
TAMURA’S PROFILE
幼少時代
小5から中3まで一度も学校に行きませんでした
――幼少時代について教えてください。
祖父が開業医だったので、両親には「医者になりなさい」と言われ、すごく勉強させられていたのを覚えています。僕もその期待に応えたくて、小4くらいまで猛勉強の日々。でも、そのストレスを食べることで発散してしまい太ってしまって…。それがきっかけでいじめられるようになり、小5の時に不登校になってしまいました。
本当は僕、小4までは明るかったんですよ。クラスの文集では面白い人ランキングTOP5に入っていたくらい。次男坊だったから人が好きというか、楽しいことが好きだったんですよ。
――それなのに容姿が変わっただけで一転してしまうんですね…。
学校に行かなくなったことを機に性格は真逆になりましたね。プツンと何かが切れてしまったような感じ。それまで親の期待に応えたくて頑張ってきたけど、それができなくなって自信もなくなってしまって。結局、小5の途中から中学の卒業式まで一日も学校に行けなかったんです。僕の義務教育はどこにいっちゃったんだって感じですよ(笑)。暗い部屋に閉じこもって、ずっとゲームをやったり、風呂にも一週間入らなかったり。
親も子どもがいきなり学校に行かなくなってショックだっただろうし、どうして良いか分からなかったと思います。最初こそ引きずって学校に行かせようとしたんですが、親も段々とあきらめて、やさしくしてくれるようになりましたね。でも、逆にそれが辛くて申し訳なくて…。自分でも「このままではマズい」と思っていました。
――田村さんの人生を変えたヴィジュアル系バンドとはいつ出会われたのですか?
中2のときです。深夜にテレビでヴィジュアル系バンドの特集をやっていて、それをたまたま観たのがきっかけです。そのときの感覚は今でも覚えている。彼らを見た瞬間にイナズマが走りましたね。彼らは決して明るくて爽やかな人間ってわけではないじゃないですか。濃い化粧をしてるし、叫んでるし(笑)。でも、そういう何か闇を持った人間が眩しい世界で活動しているってことに魅了されたんです。僕がそれまで影の世界で生きてきたこともあって、なおさら。どうしたらこういう風になれるんだろうって憧れましたね。
――そこから少しずつ人生が動き出したという感じでしょうか。
親は「好きにしていていいよ」と言ってくれていたのですが、自分の中で「いい加減変わらないと将来が終わるな」と思い、中3のときに「自分のことを誰も知らない学校に行かせてほしい」と親に無理を言って、千葉の柏から東京の高校まで1時間かけて通うことになりました。それで見事、高校デビューを果たすという(笑)。
とにかく変わりたかったので、体重を25キロも落とし、同級生には中学に行っていたものとして振る舞って(笑)。高1からさっそくライブハウスに通い、髪を赤く染めて、高2でベースも買いました。絵に描いたようなヴィジュアル系バンドへの道を突き進んでいきましたね(笑)。
――高校生活はヴィジュアル系バンド一色だったのでしょうか。
うちの学校は男女仲があまり良くなく、文化祭も修学旅行もなし。勉強以外はやることがなかったんです。学校に友達はいたんですけど、バンドは校外の人達と組んでいました。だから、バンド活動に打ち込む環境としては良かったですね。憧れのベーシストがいて、その人に僕はなる! という明確な目標もありましたし。
ヴィジュアル系バンド時代
活動休止を経て、食っていくために「本気のバンド」を結成
――卒業後はヴィジュアル系バンドへの道一択だったのでしょうか。
メジャーデビューしてやる! 世界を制してやる! という野望は全くなかったですね。ただ楽しいからバンドをやっているという感じ。進路を決める時期になって、周囲は専門学校などを志望しはじめるんですけど、僕は勉強を全くやって来なかった人なので、進学するという選択肢はなかったんです。それで、「…じゃあ、バンド?」みたいな感じで進路を決めました(笑)。
――遊びの延長としてバンドをやられていたとのことですが、いつからプロになることを考えはじめたのですか?
アマチュアバンド、インディーズバンドとして活動していたので、最初の頃は動員ゼロでも全然OKというスタンスでした。でも、少しずつプロとしての意志が芽生えはじめ、ツアーを周ったり、会場のキャパが大きくなったり…。それが21歳のときかな。
――意志が芽生えたというのは、バンドで食べていく覚悟ができたということでしょうか。
それは全然(笑)。まだまだ責任感とかわかっていなかったので、若さゆえの自信と楽しさだけ。ツアーで手応えを感じたり、急にモテはじめたりしたので、少し意識するようになったという意味ですね。24、25歳くらいまではノリで生きていましたから。
今となっては笑い話ですけど、ツアー前に初代ボーカルが姿を消したことがあって(笑)。それで結局バンドは活動休止に。そこではじめて責任を感じたんです。それと同時に「このままでは人生が終わる」という危機感も生まれました。
24、25歳にもなると、周りは現実的に将来を考えるようになり、就職し出す人も増えていたんです。でも、僕の場合は服で隠れない部分にタトゥーを入れていたので、まともに就職は難しいですよね。これから食っていくためにはどうすれば良いのかを考えたときに、バンドで売れるしかないなと思いました。そこから心機一転、自分がリーダーとなって本気で売れるバンドを目指すことになったんです。
在籍していたバンド「ν[NEU]」と前身バンド合わせての9年間が、僕を人間的に成長させたんだと思います。
――そして、いよいよメジャーデビューを果たされたのですね。
それが27、28歳くらいのときかな。失礼な言い方かもしれないけど、本気でやっていたら売れないわけがないと思っていました。メンバー全員が売れることしか考えていませんでしたから。
でも、メジャーデビューをすると関わる大人の数も増えていくし、色々な意見が入り乱れてくるんですよ。キャパも1000人を超え、僕らはそのスピードについていくのに必死で…。だんだんとメンバー達のバランスが崩れ、気づいたら楽しいと感じなくなっていました。売り上げが伸びてもライブの観客数が増えても感動しなくなって、メンバー同士の仲も険悪に…。
僕も、ステージに立っている自分と家に帰ったときの自分が別の人間になっている感覚でした。商品としての自分を俯瞰している感じですね。
――そこから解散を視野に?
自分達の限界は自分達が一番よく分かっていたので、もう終わろうと。惰性でダラダラ続けることに意味はないし、僕たちは本意ではなかったので、一番良いところで解散するのがベストだと思ったんです。解散が決まってからはメンバーの仲も戻ってきたし、解散ライブでは2100人を動員できたし、良い形で終えることができました。9年間本気で音楽に向き合ったので「もう悔いはない。次の人生に行こう」とすんなり決めることができましたね。それが30、31歳のときですね。
エステ業界に転身
5つの学校に同時に通っていました
――音楽の道からどういう経緯で美容業界へ?
またバンド時代に遡るのですが、あの頃、照明の当てかたとか写真の修正に慣れすぎていて、自分は老けないと思い込んでいたんですよ。でも、20代半ばで活動休止になって冷静に自分の顔を見てみたら、めちゃくちゃおじさんになっていて(笑)。たしかに、メイクをクレンジングシートで拭き取ったあとは洗顔もしていなかったんだから当然の結果ですよね。
自分の容姿は商品でもあったので、もっと美容に気を遣わなければいけないなと思い、サプリやパックを持ち歩くようになりました。最初の頃は、楽屋でパックをしていると他のメンバーや仲間たちがからかってくるわけですよ。でも、周りも30歳に近づいてくると状況が変わって、「この化粧水ってどうなの?」ってみんなが聞いてくるように(笑)。最初は僕のことを馬鹿にしていたのに、「なるほど、みんな歳を取ってきたんだな」としみじみ思いましたね(笑)。
歳を取るのはファンも一緒で、ステージから見ていて分かるんですよ。だから、ツイッターやブログなどで美容ネタを発信するようにしたら、徐々にファンの方から美容の相談を受けたり、「肌を触らせて下さい」と言われたりすることも増えていったんです。それで、美容って面白いなと感じるようになりました。
――ヴィジュアル系バンド時代にすでに美容キャラを確立されていたのですね。
そうですね。他のバンドにもそれが知れ渡るようになって。楽屋で出番直前まで彼らに美容講座を開いたり、ライブをささっとやって、楽屋に戻ってまた続きをやる、ということもしばしば。何しにライブに行ってるんだって感じでしたね(笑)。
他のバンドは安いクレンジングを使っている中で、僕がいた「ν[NEU]」だけはデパコスのクレンジングを使っていました。周囲がパッパとメイクを落としている中で、うちだけ「乳化させて〜」とかやっているんですよ(笑)。もうギャグですよね。でも、そのおかげでみんな肌がもちもちで、外見をちゃんとアピールできるバンドになったと思います。僕たちはお茶の間のヴィジュアル系バンドになりたかったので、将来はメイクを薄くしても大丈夫なようにって決めていたんです。
――意識が高い!田村さんが美容の道を選ばれたことは、周囲からすると不思議ではなかったのですね。それでは美容業界へ転身後、どのように技術や知識を身につけられたのでしょうか。
バンドの解散を決めてからの半年間はめちゃくちゃ暇で、週5でニートだったんです。義姉に「この先、あんたどうするの? あんたの経歴なんて一般の企業じゃ通用しないんだから、資格とか取りに行きなさい」と言われたこともあって、美容系と心理学の資格をその半年間でひたすら取りまくったんです。心理学を選んだのは、昔の自分と同じように苦しんでいる人の力になりたいと思ったことが大きかったですね。
――美容業界ではまずどんなお仕事からスタートされたのですか?
美容人生の第一歩は表情筋のセルフエステのセミナー講師でした。
実は、同時に芸能プロダクションの社員としても働いていたんですよ。これが中々のブラックで、週5で9時半から22時半まで働いて、手取りはなんと9万! 僕、それが会社勤めの普通だと思っていたので、社会勉強のつもりで働いていました(笑)。
――会社員の選択肢もあったのですね。結局、なぜエステサロンをご自分で経営しようと思われたのでしょうか。
セミナー講師として働いていた頃、協会に属していたんです。当時、会員は僕以外のほとんどが女性で、右向け右という人が多かった。「理事長がそう言っているから〜」とか、理事長が間違っていてもYESと言っちゃったり。僕は自分たちでバンドを動かしてきた人間なので、そういうことがすごく嫌だったんです。だから、理事長が間違っていると思ったら「それっておかしくないですか?」とズバズバ言うことも(笑)。
協会を大きくしたい理事長と、お客様ファーストでやりたい僕。そこでベクトルがズレたんです。福岡へ出張に行っているときに、理事長と言い合いをした流れで「じゃあ辞めますよ」と啖呵きっちゃって。その時、芸能プロダクションも、美容の講師として本腰を入れるためにすでに退職していたので、「どうしよう、辞めるって言っちゃった。明日からニートだ…」と福岡の中洲でひとり呑みながら後悔するっていう(笑)。
そこでこの先どうするか考えたときに、自分でお客様と接する場所をつくれば良いんじゃないかって思い、東京に帰って来たその日に専門のスクールや学校5つに願書を出したんです。ボディケアの専門学校2校とフェイシャルの学校2校。あとは経営の学校が1つ。それで10ヶ月くらい学生をやっていました。
ヴィジュアル系バンドとともにあった人生と潔く決別し、人生第二幕へと進んだ田村さん。けれど、バンド時代に身についた底知れぬスタミナと行動力は美容業界でも発揮されることとなります。後編では、独立にまつわる苦労話や美容業への向き合い方についてお話を伺います。
▽後編はこちら▽
この腕は、何千、何万人の人たちのためにある 私の履歴書 Vol.33【Lily 田村貴博さん】#2>>
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/石原麻里絵(fort)