すべては偶然の成り行き。必要なのはタイミングを見極める目【六本木美容室 主宰 小松比奈恵さん】#1
昨年11月に創業45周年を迎えた六本木美容室。顧客リストには美意識の高い俳優やモデルをはじめセレブの名前がずらりと並んでいます。サロンの運営はもちろんスタッフの育成に至るまで、すべてに携わっているのが代表取締役を務める小松比奈恵さん。
前編では、美容師の道を選択してサロンを立ち上げるまでの足跡と、いかにして名だたるセレブたちに愛されるサロンに育て上げたのかをご紹介します。
KOMATSU‘S’ PROFILE
- お名前
- 小松比奈恵
- 出身地
- 高知県
- 年齢
- 71歳
- 出身学校
- 山野美容専門学校
- 憧れの人
- セルジュ・ル・タンス氏 伊藤五郎先生
- プライベートの過ごし方
- テレビを観ながらゴロゴロ。週3回ジムで体を動かす
- 趣味・ハマっていること
- ゴルフとスノボー。八ヶ岳の別荘で過ごすこと
- 仕事道具へのこだわり
- 技を持つ職人として、その人全体を美しくすること
ファッションと美容のセンスを映画と雑誌で磨いた多感な10代
――企業家・美容家としてずっと第一線で活躍なさっていますが、幼いころから美容師になりたかったんですか?
まったく思っていませんでした。
両親、特に母の目論見は娘を女学校にやって、みっちり茶道や日本舞踊を学ばせて、ゆくゆくはお見合いで結婚させよう…と思っていたようです。中学・高校のころの私はおとなしくて、親に反発することのないすごく良い子だったんですよ。でも高校生活が終わるころ、私の心の中がモヤモヤして「このままの生活はイヤだ」って強く思うようになりました。それで「親のお金で1年間、東京で一人暮らしをしよう」と思い立ったんです(笑)。
当時の女性は高校を卒業したら働くか、短大へ進学するのが一般的でした。でも私はもう勉強したくない。どうしようかと思っていたら、クラスのお友だちが「美容師になるために東京の専門学校へ行く」っていうのを聞いて、それならば私も!と、山野美容専門学校に進学しました。
――専門学校にはいろいろな種類がありますが、その中から美容の分野を選んだのはなぜですか?
物心がついたころからたくさんの映画を観て、ファッション誌を食い入るように読んできたせいでしょうか。
私は高知県の田舎の生まれで、実家は雑貨屋を営んでいました。両親は共働きでお店は夜9時くらいまで営業していたものですから、宿題が終わって晩ご飯を食べ終わってもひとりぼっち。それで近所の映画館へ通っていたんです。映画館のおばちゃんとも顔なじみになって「比奈ちゃん。今日の映画は先週と同じだよ」って教えてくれるんですけど、「いいの。観たくて来たの」なんて会話をよくしましたね。
高知はなぜか映画のロケ地になることが多くて、学校の行き帰りにこっそり撮影現場を見に行くこともありました。女優さんの姿に「なんて素敵なんだろう」って感動したり、監督、カメラマン、照明さんが働く様子を見たり。幼いころから観ていた映画の裏側の世界を知ることができたんです。
中高生になると母が毎月買っていた「主婦の友」を食い入るように眺めていました。「anan」が創刊されたときは、初めて自分のお小遣いで買ったんですよ。見たことのないファッションやヘアスタイルの写真が載っていて、ファッションに目覚めるきっかけになりました。当時は情報が少なくて具体的に何をやりたいのか思い浮かびませんでしたが、ファッションや美容にまつわる「何か」をしたいと思っていたんです。
――「上京して専門学校へ進みたい」と聞いた、ご両親の反応はいかがでしたか?
母は大反対でした。「あなたを髪結いにするために女学校へ行かせたんじゃない!」って。今でもはっきり覚えています。父は大賛成で、これからの時代、女性が手に職を身につけるのは良いことだと応援してくれました。1年間、遊ぶつもりで上京して、すっかりハマってしまったんですね。
手先が不器用で、身体を壊してしまった過酷なアシスタント時代
――専門学校に通い始めて、いかがでしたか?
上京して何もかもが新鮮で刺激的でした。友達もたくさんできましたが、彼らは休みになると海や山へ行きたがるんですよね。でも私は海と山に囲まれた場所で育ったので、何の興味もない(笑)。休みのたびに朝から晩まで新宿で映画を観たり、渋谷をうろうろしたりしていました。
欲しい服や化粧品を買うために食事をガマンしていたら、みるみる痩せて65㎏あった体重が20㎏も落ちたんです。当時は寮に入っていましたが、私は寮を出て一人暮らしをしたい。そこで親に「寮に意地悪な人がいて、こんなに痩せちゃった」ってウソをついたんです。念願かなってようやく一人暮らしができ、アルバイトをすることもできました。
――学校を卒業して、就職なさったんですか?
原宿のサロンに勤めることになりました。その当時は朝7時に出勤したら買い物や掃除が主な仕事で、サロンに出ることは許されなかったんですよ。私は本当に不器用で、美容学校もやっと卒業を許されたくらい。そのサロンの先生にも「この下手くそ!」って叱られていました。裁縫も苦手で、自分でも手先が不器用なのを分かっていながら、なんでこの世界に来てしまったんでしょうね(笑)。冬休みに実家に戻ったとき、ストレスもあって腸閉塞で倒れてしまったんです。この時はさすがに父も母も東京に戻ることを許してくれませんでした。
――伊藤五郎先生との出会いは?
実家で静養していたら、友だちから「伊藤五郎先生がサロンを開くらしい。そのオープニングスタッフを募集している」と教えてもらったんです。ananで作品をお見かけして以来、ずっと尊敬していた先生のサロンで働きたいじゃないですか。親には「東京のお友だちに、きちんとさよならを伝えたいから上京したい」とウソをついて旅費を出してもらい、採用試験に行きました(笑)。
そこで百何十人もの応募者の中から6人のスターティングメンバーに選ばれたんです。パリへ留学していた人もいて、すごい人たちばかり。私は本当に下っ端でしたね。
――ご両親には、どう報告をなさったんですか?
今回ばかりは両親ともに大反対でした。仕方がないので兄にお金を借りて、家出同然で上京して、友人の家に転がり込みました。
――伊藤五郎美容室はいかがでしたか?
篠山紀信さんをはじめ当時を代表するカメラマンたちが撮影する現場や、イッセイミヤケさんのファッションショーに立ち会うなど、毎日が夢のように楽しかったですね。
その頃の俳優さんたちは着物の撮影が多くて、撮影が終わったら日本髪を結った髪を洗うのが私の仕事でした。富司純子さんや大原麗子さんなど歴代の大御所俳優さんたちの髪をシャンプーしていたんですよ。私はシャンプーが上手かったようで、よくご指名を受けていました。
小さなアトリエのつもりで始まった六本木美容室
――伊藤五郎美容室には何年くらい勤めたんですか?
6年ですね。25歳のときに独立しました。本当は辞めたくなかったんです。先生のこともスタッフのことも大好きでしたから。先生とサロンのマネージメントをしている会社で打ち合わせがあって、そこで「お休みが欲しい」って言ってしまったんです。
当時はサロンに出勤した日は夜10時まで働いて、定休日には撮影がありました。お休みは夏休みと冬休みくらいだったので、スタッフ同士でよく「休みたいね」って言っていたんです。マネージメントをしている社長が「何か意見はありますか?」と聞いてくれたので、みんなの想いを代弁したんです。そうしたら、めちゃくちゃ社長に怒られて、気まずい雰囲気になっちゃって。それからサロンにいられなくなり、辞める決心をしました。
――六本木美容室をつくったのは、それからすぐのことですか?
良い機会なのでパリに留学して、もっと勉強をしてこようかと思っていました。でも仲のいい友だちが、「あなたが勉強して戻ってきたとき、今まで担当していたたくさんのお客さまが待っていると思う? 今すぐ店を開けば良いじゃない」とアドバイスしてくれたんです。
そうしたら、知り合いが「店を開くならマンションの一室を貸してもいい」と言ってくれたり、グラフィックデザインをしている人を紹介してくれたり、いろいろなチャンスが巡ってきました。それならば…と自分の店を開くことに決めました。「店を持ちたい」と無理矢理に始めたわけではありません。
――資金はどうなさったんですか?
最終的に、どこもお金を貸してくれなかったので、父に泣きつきました。東京中の銀行を回って、お金を借りようと奔走しましたが、そう甘くはありませんでした。貸し付けの人に相談すると「あなたは女性で若い。話になりません」ですって。美容室の経営を水商売とまで言われたんですよ。カチンときて、美容業界をなめるなよ!と言う気持ちで今までやってきました(笑)。
――やはり女性というだけで厳しいんですね。
当時は女性でサロンを開こうという方は少なかったのかもしれません。私よりひと世代前にはメイ牛山さんや山野愛子さんがいらして、美容学校までつくったんですけれど。1970年代はヴィダル・サスーンの登場で男性美容師が注目されるようになりましたが、私が美容学校に通っていたころの男子生徒はほんの1割で、ほとんどが女性でした。今思うと、美容師になるというより花嫁修業の一環で通っていた方が多かったのかもしれませんね。
――サロンの名前の通り、場所は六本木ですか?
六本木を選んだのはたまたまです。当時の六本木は民家がまだたくさんあって、街灯が少なかったので夜になると寂しくてちょっと怖いくらい。静かな大人の街でした。私の中ではがっつり大がかりなサロンにするつもりもなかったですし、もともとのお客さまだけがいらっしゃる隠れ家のようなアトリエにするつもりだったんです。
設計図が完成しても、まだサロンの名前が決められずにいて、「もう間に合いません! 早く決めてください」と急かされた時に、ふと目に止まったのが設計図の上に仮称で入っていた「Roppongi Beauty Salon」の文字でした。「これでいい!」と即決でしたね。英字を漢字にして「六本木美容室」になりました。今となっては、もうちょっと違う名前にすれば良かったかも…と思っています(笑)。
――お客さまはどんな方がお見えになったんですか?
以前からお世話になっていた大原麗子さんが、俳優さんや歌手の方など大勢の方を紹介してくださいました。お見えになるのはみなさん有名な方ばかりで、まさにアトリエだったんですよ。3面の鏡にシャンプー台が1つ。私とアシスタント1人の小さなサロンで、打ち合わせをしたり、写真を撮ったり、写真をセレクトしたり。
ある年の末、秋吉久美子さん、森進一さん、吉田拓郎さん、大原麗子さんがいらっしゃるところに、堺正章さんがお見えになったんです。「比奈恵ちゃん。お正月の特別番組でも、なかなか集まれない顔ぶれが集まっているね」って、驚いていらっしゃいました。
尊敬する師と出会い、さまざまな人とのご縁でご自身のサロンを開いた小松さん。決して背伸びをしたり無理をしたりすることなく、絶妙なタイミングに身を任せながら道を切り開いていらっしゃいました。
後編では、六本木美容室が創業以来ずっとセレブ御用達のサロンであり続ける秘密や、5年前に発覚した癌をいかに克服したのかをご紹介します。
撮影/森 浩司
お話を伺ったのは…
六本木美容室 主宰
小松比奈恵さん
伊藤五郎美容室を経て、1977年に六本木美容室を設立。以後、西麻布店、白金店、広尾店、ハワイのホノルル店の直営店をはじめ、横浜と九十九里にフランチャイズ店舗を展開。サロンの経営に携わるだけでなく、早稲田美容専門学校校友会の会長も務めている。