「身だしなみ」という英国ネイル文化に「アート」の風を吹かせました 私の履歴書 Vol.36【爪飾工房 田賀美鈴さん】#1

ネイルサロン「爪飾工房」を営む田賀美鈴さんは、ソフトジェル「カルジェル」を日本に広めた第一人者。田賀さんのネイルは昔も今もカルジェル一筋、繊細な模様と優美な色使いは、世代を問わず多くの女性たちを魅了しています。

前編では、イギリス留学時代でのネイルとの出会い、カルジェルの普及や独立するまでの経緯をお話ししていただきました。

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幼少時代

絵や小説を書くのが好きでした

――まず幼少時代について教えてください。

小さい頃から本を読むのが大好きな子どもでした。偉人の伝記シリーズが全巻そろっていたり、大百科事典が何種類もあったり、百人一首だったり…と、大人向けから子ども向けまでとにかく家中本だらけの環境で育ったんです。図書館の本だって辞書までほぼ全て読んだと思います。

でも、勉強はあまり好きではなかったです。小・中・高と勉強した覚えはほとんどなく(笑)。実は半分オタクだったので、鞄の中にいつも少年マンガが何冊か入っているという感じ。

性格的には内向的でしたね。外に遊びに行くよりも家の中でマンガや本を読んでいたいというタイプ。友達も自分と同じような子達ばかりでしたし。

――小説を書いたり絵を描いたりすることもお好きだとおっしゃっていましたよね。

絵と同じくらい、字を書いていた記憶があります。小学5〜6年生のときには大学ノートを1週間で1冊埋めるくらいのペースで書いていたと思います。

――高校卒業後はどのような進路を?

4年制の美大に進学しました。国語と美術しか成績が良くなかったので、選択肢が限られてしまって。でも絵や小論文が得意だったので、美大の試験はもってこいだったんです。それでも試験はギリギリ合格という感じでしたけど(笑)。高校卒業後は家を出るようにと親に言われていたので、地元の福井を出て京都に住んでいました。

――美大で絵を勉強されていたのですか?

私が入学したのは印刷物をデザインする版画学部。写真からパソコンまで総合的に学べる学部で、就職に一番有利だと聞いたので。絵はもう描けたので、絵の勉強はしなくて良いかなと思っていました。

――その時点で、将来のことを考えていたのですね。

入学後は教員課程と学芸員課程を専攻して、教育実習に行ったり、博物館実習に行ったりしていました。いずれは先生とか博物館で子ども達をガイドするような、教える仕事に就きたかったんです。それだけは明確に決めていました。

そして、子ども達に教えるために、どうしても情操教育や生涯教育という科目を学びたくて、「最後にもう一回だけわがままを言わせてください!」と親にお願いをして、イギリスに留学したんです。いずれは地元の福井に就職するつもりだったし、そうなれば福井からはもう出ることはないなと思っていたので、その前に海外の知識を吸収しておきたかったんです。英語を含めて海外で学んだ経験があれば、他の人とは違うことができますからね。

そして留学後は福井に戻って、結婚して、という予定でいたんですけど…。

――…予定通りにいかなかったのですね。

なんと留学先の学部が、入学した直後に閉鎖。しかも学費を返さないというありえない事態に。それはもう文句を言いましたよ。だってこっちは大使館を通して留学しているわけですから。でも、当時は契約書なんてなかったですし、私もそこまで英語が堪能じゃなかったので、丸め込まれて、結局泣き寝入り。怒りとともに、親に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

イギリス留学〜ネイルとの出会い

生活費を稼ぐため、バイト先に選んだのがネイルサロン

――留学した矢先に学部が閉鎖だなんて衝撃すぎます…。そのあと、どのように過ごされたのですか?

イギリスの美術部には、学生が自由に使える工房があって、絵具や道具もそこに揃っていたんですね。だからその設備を一番使える学科に編入したんです。その工房で絵を書いて、画廊に売りに出して、そこでお金を稼いでいました。たしか1枚3万円くらいで売れていたかと。

自分がやりたい勉強ができなかったので、まじめに学業をするつもりなんてありませんでした。さっさとバイト先も探して、そのときに見つけたのがネイルサロンだったんです。

――そこでネイルの世界に入られたのですね。ネイルがお好きだからだと思っていました。

爪に絵を描く職業があるらしいということは日本にいた頃から知っていました。それに手先は器用だったので、自分ならネイルもできるかなと思っていたんです。

あるとき、ホームステイ先のホストファミリーが、私のことをご近所さんに話してくれて。それでご近所さんにネイルを施すようになったんですけど、そのうちの一人が「私が通っているネイルサロンがあなたに興味を持っているから、来てみない?」と声をかけてくれたんです。それからネイルサロンで週2で働くことになりまして。半年後には指名が付き、1年後には売り上げトップになっていました。

――1年後に売り上げトップとはすごいですね! 当時、イギリスのネイル業界はどのような感じだったのですか?

私がイギリスに住んでいたのは1998年〜2001年暮れで、早いもので今から20年も前の話になってしまうんですけど…。イギリスでは当時、ネイルは働く女性の「身だしなみ」でした。「おしゃれ」じゃないんです。朝起きてお化粧をするのと同じ感覚。弁護士も、スーパーで働いている人も、保育士さんも2週間に1度はきちんとお手入れをするんですよ。

私が働いていたサロンに来るお客さまも働いている女性ばかりで、スタッフもきちんと制服を着ていたんです。たまに小銭を持った若い女の子が来たりすると、受付スタッフは立ち上がりもしないで、チラッと目を向けるだけ。「あら、お母さんにもらったお小遣いで何しに来たの?」という態度であしらうわけですよ。

そういう風潮の中だったので、最初は「ネイルアートなんかいらないわ」と言われていたんです。でも、「22歳くらいの若い子が遠い国から来て頑張っている」ということで、優しいマダムが「小指にだったら描いても良いわよ」とさせていただいて。次に来店したときに「ネイルアートを周りに褒めてもらえたから、次は人差し指にもお願い」と言ってもらえたりして、少しずつネイルアートをするお客さまが増えていったんです。

――イギリスで田賀さんがネイルアートの風を吹かせたのですね。

実は現地の新聞やテレビに取材していただいたこともあるんです。イギリスの「全国ネイルアートコンペティション」という大会でも3回優勝しました。

そんな矢先、残念なことにビザが切れてしまって…。サロンのオーナーがビジネスビザを申請してくれたんですけど、結局ダメで。イギリスは当時からビザを取得するのが物凄く難しかったんです。ネイルアートができる日本人を一人雇うよりも、イギリス人を二人雇って、一人がネイル、もう一人がアートをすれば十分、ということをイギリス内務省から言われてしまったんです。

――これからというときに帰国を余儀なくされるなんて悔しかったですよね。

私のお客さまに、ロンドンでヘアサロンとネイルサロンを経営されている日本人女性がいたんです。一緒に食事をしたり、家に泊まったり、結構お世話になっていた方なんですけど、帰国の報告をしたときに、「『カルジェル』を輸入する会社を一緒に日本で立ち上げない?」と誘われたんです。

――「カルジェル」ですか?

当時、私が働いていたサロンは、「カルジェル」というソフトジェルのブランドをはじめて全面導入したサロンだったんです。オーナーがとてもリベラルな方だったんですけど、ある日突然、見たことのないジェルネイルを持ってきて「明日から全部このカルジェルに変える」と言い出して。

これがもう大ヒット! サロンの売り上げが約8倍になり、3人しかいなかったスタッフが最終的には12人まで増えたんです。私も一日に10人ほど、朝から晩までフルで施術に入っていましたね。

その日本人経営者の女性もカルジェルに魅了された一人で、日本にはまだ普及していないことに着目したというわけです。

帰国後〜「カルジェル」の普及

やっぱり管理職には向いていませんでした(笑)

――では帰国と同時に日本での就職先も決まったということでしょうか。

運が良いことに。帰国してすぐに「株式会社MOGA BROOK」という会社が立ち上がり、スターティングメンバー3人のうちの1人に加えてもらったんです。社長にもすごく面倒を見ていただきましたし、その会社には結局15年ほどお世話になりました。

――その会社では田賀さんはどのようなお仕事を?

私が一番カルジェルを使い慣れているということで、カルジェルの施術教育と販売を任されました。もちろんサロンでの施術がメインではありましたけど。日本ではじめて「溶けるジェル」を輸入したのがうちの会社だったので、使い方がまだ普及していなかったのです。製造元とも「日本できちんと使い方を教育してから販売する」という取り決めがありまして。

――日本ではキラキラ・ゴテゴテのデザインが流行だったかと思いますが、当時の田賀さんのデザインに対して、周囲の反応はいかがでしたか?

お客さまは私より15歳以上年上の方が多かったんです。というのも、最初は社長や社員の紹介で来てくださる方がほとんどで。そういう方々はキラキラ・プリプリのデザインではなく、イギリス同様に身だしなみとしてのネイルを好まれていました。今は結構若いお客さまも多いですけどね。

でも、私の強みはアートだったし、カルジェルを売るにはインパクトが大事なので、やっぱりアートは必要だなと。身だしなみから逸脱しない程度にネイルアートを施す、というスタイルでやっていました。

――イギリスから日本に活動の場を移されて、苦労されたことはありますか?

日本ではネイル業界がしっかり確立されていたので、海外から帰ってきたときに「何だコイツ…?」という雰囲気はやや感じてはいました(笑)。今だから言えますけど、当時はちょっと浮いていたみたいで…。イギリスで「爪の形はこう!」「このデザインがキレイ!」と習ってきたことが、日本では全然違う。郷に入っては郷に従えなので、私も教え方を日本式に変えなければいけませんでした。その他に苦労したことといえば、イギリス基準でつくられた「カルジェル技術試験」をどうするかとか、ラベルを日本語に翻訳しなければいけないとか、輸入販売許可証を提出したりとか、雑務に思いのほか時間が取られたくらいですかね。

デザインを生み出せなくて辛い、という苦しみは私にとっては楽しいうちに入るので、ネイリストとしての苦労はあまりないです。

――15年間、ずっと現場に立たれていたのでしょうか。

最後の5〜6年は現場ではなく管理職に就いていました。それが会社勤めの常なんでしょうけど、私の場合、管理職は無理でしたね(笑)。それまで1cm×2cm×10本の世界で生きてきたので、例えば「年間の予算が〜」とか言われると脳が自動的にシャットアウトして、「来週、マンガの発売日だっけな…」と現実逃避しちゃうんです(笑)。人間にはやっぱり向き不向きがあるのだということを15年かけて学びました。

42歳くらいのときに、社長に「どうやら管理職には向いていません。申し訳ありませんが現場に戻らせていただきます」と申し出て、独立したんです。

でも、その会社とはその後もずっとつながっていましたし、私は今もカルジェル以外は使っていません。

田賀さんのネイルとの出会いは思わぬものでした。しかし、幼少時代から培われてきた創作意欲と器用な手先を活かせるネイルアートはまさに田賀さんにぴったりの職業だったようです。会社勤めが性に合わないということで独立されたあと、田賀さんがどのようなネイリスト人生を歩まれたのか、後編でお聞きします。

▽後編はこちら▽
お客さまが外に連れ出してくれたおかげで、私のネイリスト人生が色鮮やかに 私の履歴書 Vol.36【爪飾工房 田賀美鈴さん】#2>>

取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/柴田大地(fort)

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Salon Data

爪飾工房

住所:東京都港区南青山5-4-44 ラポール南青山54 207号室
TEL:03-6427-5547

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