地元・山梨でUターン開業!12店舗を抱えるグループ企業へ【株式会社MICRO 平塚政雄さん】#1
山梨県甲州市を拠点にグループサロン12店舗を展開しているMICROグループ。その代表を務める平塚政雄さんは、東京・原宿の有名店で経験を積んだ後、地元・山梨にて開業しました。
前編では、独立開業から13年でグループを大きくしてきた平塚さんに、これまでの道のりをお聞きします。
お話を伺ったのは…
株式会社MICRO 代表取締役 平塚政雄さん
国内外の有名サロンに勤務。2010年に山梨県に拠点を移し、株式会社MICROを設立。ヘアやネイルなどサロン12店舗を統括する。NY CollectionやPARIS Collectionにヘアアーティストとして参加。自身の美容理論をまとめた『サイズバランスコントロール』を出版し、美容メーカーとの商品開発や講習活動も。スキルアップスクール「Antique Total Beauty Academy」を開校し、後進育成にも務めている。
Instagram:@masao.hiratsuka
病気を患った母のサロンを継ぐため地元・山梨へ

――まずは開業の経緯を教えてください。
きっかけは母の病気でした。当時、僕は東京・原宿にある大手サロンに6年勤めていました。母は山梨県で美容師をしていたのですが、病気がわかり原宿の病院に入院することになったんです。闘病生活が続くなか、母は「自分の命より、地元に残してきたサロンとお客さん、スタッフが心配だ」と言うようになりました。
その姿を見たら、「東京で美容師をしている意味ってあるのかな」と思ったんです。そこで地元に戻って、母のサロンを引き継ぎ、母の代からのスタッフたちと一緒に始めたのが1店舗目です。
――開業は山梨県でスタートされたんですね。そもそもUターン開業の想定はあったんですか?
いいえ、全くなかったです。母の病気がなければ独立していないと思います。以前のサロンにはオーナーに憧れて入社しましたから、その望んだ環境にいられる喜びもありました。
でも今思うと、ヘア業界がファッションに寄りすぎているというか、もう少しライフスタイルに寄った仕事がしたいという気持ちはあったと思います。原宿・表参道にしても、パリやニューヨークのメインストリートにしても、似たようなブランドが並んでいて、そのなかにヘアサロンがある。
ヘアはもっと身近で、生活に寄り添ったものだと僕は思うんです。だから地元に戻って美容師をすることにも、そこまで抵抗がなかったのかなと思います。
地道な集客と「また来たい」と思われる接客で人気店へ成長

――東京と山梨ではサロン経営にも違いがありそうですが、開業当初大変だったことは?
急にサロンの軸だった母が入院したので、こちらの状況もめちゃくちゃでしたし、僕も2カ月で原宿のサロンを辞めてバタバタと帰ってきたので、当初は本当に大変でしたね。
まずはとにかくお客さんがいないと始まりませんが、突然帰ってきた僕のところに来てくれるのは高校や大学時代の友達くらい。だから最初は、どうやってお客さんを呼ぼうかというところからスタートしました。
当時は今みたいにSNSもありませんでしたし、顧客がいないのでDMを出すこともできない。だから自転車で近所の家をひたすらまわってポスティングしたり、「帰ってきたので、もしよければ前髪だけでも切りに来てください」と挨拶してまわったりと、地道に頑張りました。その結果、200人くらいお客さんが来てくれて、なんとか軌道にのったんです。
――やはり技術を感じてもらえたのが大きいですか?
正直なところ、当時の僕の技術はまだまだだったと思います。今と比べたら雲泥の差だし、地域にも長く美容師を続けている上手な人たちもいっぱいいましたから。
だから当時はとにかく、どうしたらお客さんが喜んでくれるかだけを考え、「また来たい」と思ってもらえるような接客を意識していました。
例えば百貨店に入っているような美容室って、礼儀や接遇がすごくきちんとしているけれど、リピートや紹介というより一見さんが多いイメージがあって…。僕がいろんな人と関わってきたなかで「また会いたい」と思う人は、そういう礼儀正しい感じとは少し違って、フランクだけど緊張感があって、でもそれを表には出さない――そんな人なんです。
そういう人のところにリピーターは来ると思うので、僕もそうなれるように意識して会話をしていました。それが地元での集客には良かったのかもしれません。
有名店時代と変わらず努力を重ね、労働環境の改善も

――地元に帰ってきて、働き方に変化はありましたか?
東京時代は、有名店でしたから当時原宿にあるサロンのなかでも厳しい環境で、夜遅くまで練習したり、早朝から撮影をしたりしていました。それに慣れていたせいか、山梨に帰って来てからも同じように働いていましたね。グダグダできない性格なので、慣れている厳しい環境を変えることはありませんでした。逆に山梨から東京に働きに行ったら、多分きつかったと思います。
――独立開業後、株式会社も設立されました。最初から会社としてやっていこうという気持ちで?
会社を作ったのは、辞めたスタッフのご家族からのアドバイスがきっかけでした。いろんな親に育てられた子どもたちが働きに来るなかで、美容室の働き方は一般的な仕事をしている親からすると、どこかズレている。その点を指摘されたんです。
美容室経営でも社会保障や福利厚生の面をきちんと整えることは、今後会社を大きくしていくなら必要だというアドバイスをもらい、「確かにそうですね」と言って一週間後くらいに会社を作りました。
本当に何もわからなかったので、お客さんのなかにたまたま会計士さんや社労士さんがいたので、外部顧問というかたちで手伝ってもらいながら、手探りで立ち上げたんです。
――対応が早いですね!その後についてもお聞きできますか?
1年ほどして母の病状が少し落ち着いたこともあり、2011年に2店舗目を出しました。昔からのスタッフと、若い新しいスタッフでは客層が違ったので、その棲み分けをしたんです。
その後、2店舗目のサロンを移すカタチで、2015年に現在の「antique」をオープンしました。それ以降は、アシスタントだった子たちが巣立ってサロンを出していくなかで、グループが大きくなっていったんです。
グループが大きくなっていく間も、変わらずサロンに立ち続けていた平塚さん。経営者よりもプレイヤーという印象の強い平塚さんが、グループを大きくしていった経緯や想いについて、後編でお聞きします。
取材・文/山本二季