自分の体を実験台にして技術を身につけてきました。私の履歴書Vol.31【「ZARAHA BEAUTY」セラピスト 仲松知美さん】#1
新規の予約が取れないゴッドハンド。そして、芸能界にも多くのファンを持つセラピスト 仲松知美さん。その施術スタイルは、まずはお客様ときちんと会話をして向き合うというもの。
この業界に入る前は、実は歌手を志望していたと語ります。前編では、マッサージの道に入ったきっかけや、スポ根新人時代、そして独立するまでのお話を伺います。サバサバとしたお人柄に、気持ちの良いくらい豪快な笑い方。思わず背中を押されるようなパワーあふれる方でした。
NAKAMATSU’S PROFILE
幼少時代
歌手で成功するんだと思っていました
――どんな幼少時代だったのでしょうか?
すごく活発な女の子でした。男の子と遊んだり、ギブスを付けながらドッジボールをやったり、やんちゃでしたね。勉強は好きじゃなくて、体育とか美術、音楽、歴史が得意だったんです。あと、大人に混じってニュースの話などをしたがる子でしたね。当時の大統領の話とかをしていました(笑)。
――美容にはいつ頃興味を持たれたのでしょうか?
私、本当は歌手になりたかったんですよ。高校卒業後の進路を決めるときに、東京の学校の資料を取り寄せて親に提出したんですが、速攻却下(笑)。東京に行くのをすごく反対されたんです。それで、他に何ができるかなと考えたときに、姉が美容師をやっていて、働きながら専門学校に通っていたので、私も同じように地元・大分の美容専門学校の通信制に入学して、働きながら通うことにしたんです。
――歌手よりも美容の道を選んだのですか?
美容専門学校は3年制だったんですけど、実は2年半で辞めちゃったんです。どうしても東京に行って歌手になりたかったから。残りたったの半年でしょと思われるかもしれないけれど、自分で学費を払っていたので、その半年分のお金がもったいないなと感じたんです。早く東京に行かなきゃと焦っていて、半年分の学費を東京に行く資金に回そうと思ったんです。学校を辞めてからは、もっとお金を貯めるために仕事を3つくらい掛け持ちしていました。
――そもそも最初に歌手になりたかったきっかけとは?
小さい頃から美空ひばりさんが好きで、美空さんみたいに、死んでも名前が残るような人になりたくて。自分が死んだら、自分がいたという証がこの世から消えるのが嫌だったんです。自分は歌で成功すると信じて疑わなかったので、このときは美容の道は考えになかったですね。
――上京してみて、いかがでしたか?
もう都会すぎて(笑)。最初は馴染めなくて大分に帰りたいと思っていたときもありましたが、みんなに「東京に行く」と啖呵を切って出てきた手前、戻るに戻れなくて…。
歌手活動の方は、「オーディションを受けるのは邪道だ。自分はアンダーグラウンドから這い上がってやるんだ」というわけのわからないプライドがあって、クラブとかで歌っていました。オーディションなんて受けなくて良くない? みたいな感じで、根拠のない自信を持っていたんです(笑)。
歌手からマッサージの世界へ
何度も体を壊したのは神様からの試練だったのかも
――歌手から一転、何をきっかけにマッサージの世界に足を踏み入れることになったのでしょうか?
歌手活動をしていたとき、バイト先の先輩がマッサージのお店で働き出して、私も誘われたんです。私、学生時代にスポーツをやっていたので、体のことを良くわかっているし、体力もあるからマッサージに向いてるんじゃないかって。それで話だけ聞きに行ったところ、「じゃあいつからスクールに入れる?」といきなり話が進んでいて。戸惑いつつ、「え、じゃあ来月から…?」と返事したんですよ(笑)。それがこの業界に入ったきっかけなんです。
――気づいたら…という感じだったんですね(笑)。
当然マッサージのマの字も知らず、「一体何をするんだろう」というレベルでスクールに入りました。私って何故か、右側の施術をしたあとに左側も同じ流れで施術することができなかったんですよ。先生には怒られるし、なぜできないのかも分からなくて悔しかったですね。
――それでスイッチが入ったのでしょうか?
スポーツ少女だった学生時代に遡るんですけど、納得いくまでやめられない性格だったんです。特にバドミントンが好きだったんですが、中学にバド部がなかったので代わりに体力をつける目的でバスケ部に入ったんですよ。バスケの練習が終わったあとに外部のバドミントンクラブの練習に行く、という感じでやっていて。それで、高校受験のときにバドミントンで推薦をもらえたんですが、バスケの方で納得がいかなくて、結局推薦を蹴っちゃったんです。それで一般受験で同じ高校に入学して、もう一度バスケ部に入ったんです。そのくらい、突き詰めないと気が済まないタイプだったんですよね。
――学生時代のスポーツ魂がマッサージの世界でも発揮されたんですね。
施術でもスポーツをしていた頃の経験が役に立ちました。私、バスケ部時代に何度も怪我しているんですよ。靭帯を2本切ったり、腰を疲労骨折したり、首を痛めたり、手術したことも。腰を故障したときに、顧問の先生に何故かお尻をほぐされたことがあって。痛すぎてほふく前進で逃げ回っていたんですが、終わってから不思議と腰が楽になったんですよ。そのときに「腰が辛いときはお尻がキーなんだな」ということに気づいたんです。あと、どこか一部分がおかしいと、色々なバランスが崩れるということも身を持って知りました。そういう記憶が自分の中にインプットされていて、施術しているときに思い出すんですよ。
今思うと、自分がたくさん体を壊しているのは、神様からの試練だったのかな。一つ怪我することで一つの学びを得るという感じ。怪我をして戻して、また怪我をして戻して…というのを繰り返して、怪我から復活するためにどうすれば良いのかを自分の体を実験台にしてやってきたんです。
――誰かがつくったマニュアルではなく、ご自身の実体験がベースになったのですね。
根本は自分の経験ですね。
独立
ネームバリューにあぐらを掻いていたら今のスタイルに辿り着けませんでした
――スクール卒業後にエステサロンに就職されたとのことですが、お客さんの反応はいかがでしたか?
一時期、ちょっと天狗になっていたと思うんです。指名をたくさんいただいたこともあって、「私、イケるんじゃない?」って変に自信がついちゃって。1社目で3年間働いたのちに独立して、しばらくはフリーランスとしてレンタルスペースを借りて施術をしていました。ところが、そのときにお客様の反応にギャップを感じるようになりまして…。前から私のところに通ってくれているお客様は良かったのですが、新規の方の反応が、私がこれまで経験してきたものとは違ったんです。前のお店前のお店ではがっつり力任せに施術するのが当たり前だったんですが、自分のお店でそれをやると「こんなに強い力で大丈夫ですか?」と怖がられてしまい…。逆に強い施術にみんな喜んでいたのに何で? とこっちも戸惑いました。結論、前のお店ではネームバリューを求めて来ていただけだったんです。
そこからは、お客様ともっと会話をしないとダメなんだという考え方になり、カウンセリングに力を入れるようにしました。このときにシフトできたから今があるんだと思います。あのままずっと1社目のネームバリューに腰掛けてフリーランスになっていなかったら、その後の成長はなかったかもしれません。
――マッサージを本業にする覚悟はどのタイミングでできたのでしょうか?
ずっと歌とマッサージを天秤にかけていたんですが、マッサージをはじめて5、6年目のときにいよいよ真剣に考えたんですよ。それで、「ありがとう」と感謝されることが多かったのがマッサージだったんです。私は歌で上手く想いを伝えることができず、押し付けてしまっているような感じだったのに対し、マッサージでは自分が求められるんです。相手の体と私の手で会話をして不調をクリアにしていく、そして終わったらキラキラした目で「ありがとう」と言われる。それってすごいことだなと思ったら、もう迷いはなかったです。それがターニングポイントですね。歌はもう少しゆっくりできたときにバーとかでやろうかなと思っています。
――仲松さんはずっとパワフルに働いてこられたイメージですが、苦しかった時期はありませんでしたか?
お店を持ってからは予約を詰めて取りすぎていたので、休みも十分に取っていませんでした。だから体に限界がきちゃったんですよね。大きく呼吸するだけで背中に激痛が走ったり、腕が上がらなかったり、首が回らなかったり。あまりに苦しくて涙がバーって出るほど。それでも何とか施術をしていて、お客様には「前の方がほぐれたかも」と言われる始末。こんなに詰めて仕事をしても、結局お客様に満足してもらえないとはどういうこと!? って感じですよね。その一言で、体が資本なんだということにはっきりと気づかされたんです。
施術後すぐに取材にご対応くださったため、仲松さんは最初、髪は乱れ、わずかに息が上がっている状態でした。そこまで髪を振り乱すほど、一体どれだけ力を尽くして施術をしていたのだろうか…と想像したら、仲松さんのもとにたくさんの人が通う理由がわかった気がしました。「マッサージは自分が求められるから」を根拠にこの世界に腰を据えた仲松さん。ゴッドハンドと呼ばれるまでの道のりを後編でお伝えします。
▽後編はこちら▽
私は弱くないから、悪いものは私のところに捨てに来て大丈夫。私の履歴書Vol.31【「ZARAHA BEAUTY」セラピスト 仲松知美さん】#2>>
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/石原麻里絵(fort)