偉大な先輩たちに憧れ、同期と喧嘩し、本気で生きたDaB時代【STRAMA代表 豊田永秀さん】#1
創業18年を迎える「STRAMA」は、ハイセンスさとクリエイションに対する冒険心は今も健在。今回取材した代表の豊田永秀さんはDaBの初期メンバーの一人です。名古屋のサロンで2年間を過ごし、ふとして出会ったDaBに心酔。錚々たる顔ぶれの先輩たちへの憧れを糧に、厳しい10年間を勤め上げたそうです。
前編では、独立する前のDaB時代について語っていただきました。自分が憧れた先輩のために、サロンのために、どこまでも熱くなれる方でした。
TOYODA’S PROFILE
年表項目
- お名前
- 豊田永秀
- 出身地
- 愛知県
- 年齢
- 49
- 出身学校
- 中部美容専門学校
- 経歴
- 愛知県内1店舗を経て
1995年 DaB入社
2005年STRAMAスタート
2022年3月 ブランドを再構築し、新しいSTRAMAとしてスタートさせる
プライベートな部分
- 憧れの人
- 師匠はもちろんのこと、自分の周りには憧れの対象となる人ばかりで一人には絞れません
- プライベートの過ごし方
- 仕事のことをなるべく考えないようにして過ごす
- 趣味・ハマっていること
- ハマっていることは数えきれないくらいありますが、逆にハマらなかったものはギターと料理です
- 仕事道具へのこだわりがあれば
- 自分に合う道具を探すのではなく、道具に合わせられる自分をつくる
エキスパート集団のDaBに魅了され、アルバイトからの逆転入社
――名古屋の美容室で2年間働いたのち、どのような経緯でDaBに入社されたのですか?
たまたま開業準備で工事中だったDaBの前を通りがかったんですよ。中を少しのぞいてみたら、当時話題の自動洗髪機が5台も並び、内装もすごく洗練されていて、「かっこいい!」と思ったんです。
昔過ぎて記憶が曖昧ですが、確か…代表の八木岡聡さんとACQUA会長の綾小路竹千代さんが雑誌の記事で対談をしていたんですね。「DaBにアシスタントはいらない。エキスパートだけの集団にしたい」という八木岡さんの言葉に感銘を受けちゃって、サロンの門を叩きに行ったんですよ。履歴書も持たずに(笑)。そうしたら「じゃあ、バイトする?」と声をかけていただいたんです。
ところが、入社初日にインフルエンザにかかってしまったため、入社の話は流れてしまい、絶望。けれど、「年末忙しいから手伝ってくれないか?」と再度声をかけていただき、3日間アルバイトとして働かせていただくことになったんです。このチャンスを無駄にしてたまるかと思ったし、自信もありました。
――八木岡さんたちと一緒に働かれて、いかがでしたか?
例えるなら、麦わら海賊団、ですね。本当にエキスパート集団でした。それも美容師としてのスキルだけでなく、色々なジャンルに長けているエキスパートたちだったんです。
八木岡さんや山田千恵さんのヘルプに入ったのですが、見たことないデザインばかりで、お客様もみんなお洒落だし、鳥肌立ちまくりでしたね。「ヤバいな、この人たち」って(笑)。
忘れもしないのが、ファッションを怒られたこと。バイトといえど、このサロンの一員になるんだからそんな格好じゃダメだ、とね。初日にすっごく怒られ、また次の日も怒られ、最終日に一張羅のジャケットを着て行ったらやっと合格をもらえました(笑)。
――アルバイトからどのように入社のチャンスを掴んだのですか?
最終日の大晦日にサロンの忘年会があり、そこで専務の小野浩一さんに「やる気があるならうちで働くか」と声をかけていただいたんです。DaBにすっかり魅了されていた僕は即答でしたが、一つだけ条件があると言われました。それが「バリバリ働いて、一刻も早く俺たちに楽をさせろ」だったんです。その言葉と、それを言った小野さんがめちゃくちゃかっこよくて、痺れましたね。
入社が決定したその忘年会で嬉し涙を流し、朝まで飲んでいたのを覚えています。そこに、のちにライバル兼親友となるVANもいたんですけど(笑)。
先輩たちがかっこ良すぎて、仕事もそれ以外も褒められたくて必死だった
――カットスタイルも一新したのですか?
はい、一から学ばせてもらいました。八木岡さんのカットの何に驚いたかというと、手数の少なさ。八木岡さんは、僕のカットの10分の1くらいのスピードで切るんですよ。八木岡さんだけでなく、小野さん・山田さん・中澤さんという偉大な先輩たちの技術をとにかく盗もうと、必死に練習しました。
――ちなみに当時の豊田さんはどんなキャラクターだったのでしょうか?
前店での経験があったので、先輩たちに生意気にも反論してしまうことも多く、目の下のタンコブだと言われたこともありました(笑)。仕事中もそれ以外でもとりあえず盛り上げたいと思っていたような気がしますね。それは今でも変わりませんが(笑)。
あと、同い年でほぼ同期だったVANとはよく喧嘩しましたね〜。例えば、後輩のミスをめぐり、お客様の前でVANと言い合いになったことも。最終的に八木岡さんが入ってきて「喧嘩は裏でやりなさいっ!!」と怒鳴られ、二人でバックルームに行って、胸ぐらの掴み合い(笑)。他にも、シャンプー台にお通しする順番や、椅子の奪い合いもよくしていましたね。
――そんな風にぶつかり合えるなんて、熱い関係だったんですね。
サロンのみんなでカラオケに行くときも全力でしたよ。VANが郷ひろみさんの曲を歌って大ウケしたのを見て、僕は「デビルマン」の曲で張り合い、先輩たちに賛美を浴びました(笑)。「お前たちは仕事もそれ以外も全力だな」「サービス精神抜群だから、良い美容師になるよ」と言われたのを覚えています。
――先輩に褒めてもらえる、というのが最高のモチベーションだったんですね。
だって、先輩たちがみんなかっこ良すぎたから。全てにおいて本気だったし、誰よりも上手くなりたい、という意識はみんな強かったです。
必死についていきながらも、エキスパートばかりのこの集団で「自分は何を極めたら良いんだろう?」と考えるようになっていました。そこで、たどり着いたのが「パンクやロックテイストのあるヘアデザイン」でした。自分が好きだったこともありますが、先輩たちがあまりデザインしていないこのジャンルに活路を見出そうとしていましたね。
――パンクを落とし込んだスタイルの評価はいかがでしたか?
パンクムーブメントにいた男性をイメージしたヘアスタイルが雑誌に載ったときは、メンズのお客様がたくさん来てくれました。同じくパンクムーブメントにいた女性をイメージし、目の周りを黒く塗り、髪色をピンクベージュに染めたスタイルがファッション雑誌に載ったときは、先輩には下手くそと怒られましたが、「ピンクベージュに染めたい」という女性客が殺到しました。「よっしゃ!」と思った瞬間でしたね。
熱い想いを伝えることしか、独立する術を知らなかった
――独立はいつ頃から視野に入れていたのですか?
名古屋にいた頃は独立したいと思っていましたが、DaBに入社してからは、八木岡さんや小野さんたちに早く楽をさせて、自分たちがDaBを継いでいくんだという気持ちでやっていました。
幹部になると、後輩をいかに育てて会社に貢献していくかということばかりを考え、自分のことは後回しになっていたんです。
その頃になると従業員が80~90人ほどに増えていて、毎日後輩を一人ずつ飲みに連れて行き、説教しては「頑張れ」と励ます日々。数えきれないくらいこなしてきた雑誌の撮影やヘアメイクの仕事も、この頃にはほとんど後輩に譲っていました。
そんな時期に後輩が育ち、お店も大きくなり、ふと自分自身を見つめ直したときに「自分のやりたいことって何だろう?」という気持ちが湧いて、それがどんどん大きくなっていったんです。
DaBに十分貢献できたと思ったし、そろそろ自分の道を歩んでも良いのかもしれないなと。
――当時のDaBでは、独立は御法度だったのでは…?
約10年ほどDaBに勤めましたが、辞める人はいても、独立した人は誰もいませんでしたからね。僕がはじめてだったので、辞めるまでのプロセスは手探りでしたし、熱い想いを伝えることしかできませんでした。
上司に相談したら反対はされなかったけれど、すぐには辞めれるわけもなく。度々上司と飲みに行っては独立の話をしていましたね。相談をしはじめてから何年か過ぎたあるときに「良いよ。頑張りなさい」と言ってもらえました。
心残りは、社長たちを引退させられなかったこと。それが叶っていたら、僕は今、DaBの社長になっていたかもしれません。だって、DaBのことは大好きでしたから。
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カットにも、サロンにも、仲間にも熱い想いをぶつけ、自身の全てを捧げたDaB時代。独立第一号としてDaBを飛び出し、「STRAMA」を創設しますが、豊田さんはどんな経営者となるのか、後編で詳しくお聞きします。
取材・文/佐藤咲稀(レ・キャトル)
撮影/喜多二三雄