大手電機メーカーのSEから、自身のオーガニックコスメブランド社長に転身! 私の履歴書【オーガニックビューティー代表 関根千恵さん】#1

元オーガニックコスメインストラクターで、現在はオーガニックコスメの製造・販売会社代表を務める関根千恵さん。国内外の数多くのオーガニック化粧品に携わった経験を活かし、自身のオーガニックコスメブランドROSES DE BIOを立ち上げました。前編では、コスメおたくだったリケ女時代、大手電機メーカーのSEからオーガニック化粧品のインストラクターへ転身し、オーガニックコスメ販売会社の社長を務めた当時を振り返っていただきます。

CHIE’S PROFILE

お名前
関根千恵
出身地
東京葛飾区
年齢
52才
出身学校
東京理科大学理学部数学科卒業
プライベートの過ごし方
「3年前に結婚した主人と、近所の公園や自然豊かな場所を散歩するのが楽しみ。旅行も趣味で、最近訪れてよかったのはタイと沖縄です」
憧れの人
「ともに将棋の棋士だった両親。母は初の女流棋士、父は農林技官から棋士に転身しました。自分のやりたいことがあったら、前例がなくても、信念と努力を持ってやり遂げることをいちばん身近で教えてくれた人です」

大手電機メーカーを退職し、オーガニックコスメの総販売元に転職

――幼少時代から化粧品が大好きだったそうですね。

母が忙しくて私の遊び相手になれないときも、「化粧品触ってていいよ」と言われると、ひとりでおとなしく遊んでいる子だったようです。

わたしの母は将棋の女流棋士でした。初の女流棋士ということで人目にもつくので、仕事のときは、よそいきの服を着て、化粧をして出かけるんですよね。その姿は、家で家事をしている母とはまるで違って、子どもの目にはシンデレラのように映ったものです。幼いながらも、化粧は女性を輝かせるものなんだということを強く感じていました。

――オーガニックコスメとの出会いはいつ頃ですか?

25才のときです。化粧品には並々ならぬ興味があったのに、私立中高時代は校則が厳しくて、リップクリームを塗ることさえ許されませんでした。その反動もあり、高校卒業と同時に、百貨店の化粧品カウンターやバラエティショップで化粧品を購入しては使うようになりました。でも突然、化粧品を使い始めたものだから、顔中ニキビだらけに。それを治すためにまた別の化粧品を使い、さらにひどくなってしまうという悪循環に陥ってしまったんです。当時、試した化粧品のブランド数は、軽く100を超えていました。そんな中、たまたま立ち寄った百貨店のアロマセラピーフェアで出会ったのが、オーガニックコスメでした。

――それは、どんな化粧品だったのですか?

当時はオーガニックコスメという言葉もない時代でしたが、いま振り返るとオーガニックコスメの火付け役となった海外製の植物性化粧品でした。それまで買い漁っていたケミカルコスメとも無添加コスメとも違う、なんともクリアなハーブの香りと、もたっとしたテクスチャーながら意外なほど浸透性の高いクリームやオイルたち…。オーガニックコスメで劇的にニキビが治ったわけではなかったのですが、日に日に肌の調子がよくなっていくのを感じました。

同時に、オーガニックコスメの良さを伝えたいという気持ちが高まり、それから1年後に勤めていた大手電機メーカーを退職。わたしがはじめて出会ったオーガニックコスメの総販売元に転職しました。いま思えば、これが人生の大きな転機となりました。

化粧品知識の蓄積と化粧品愛で、年間100万個のヒット商品を生み出す

――前職ではシステムエンジニアをされていたんですよね。未経験の業界への転職に勇気はいりませんでしたか?

仕事に費やす時間は、1日8時間以上ですよね。その8時間を仕方なく費やすのか、自分がやりたいことをやって楽しい時間にするのかはプライスレスだと思ったんです。たとえ給与や待遇が悪くなったとしても、とにかく好きなことに自分の人生を使ったほうがいいのかなという思いが強かったですね。

――実際、転職はスムーズでしたか?

小さい会社だったので、学歴や職歴が歓迎されて意外とスムーズでした。とはいえ、美容は大好きでしたが、仕事としては未経験。はじめはパソコン作業などの事務仕事をしつつ、美容の仕事を覚えていきました。好きこそ物の上手なれと言いますが、わりと早く仕事を覚えることができて、販売店の方に化粧品の説明とマッサージの方法を教えるインストラクターの仕事に就くことができました

――インストラクター時代に苦労したことと、得たものはありますか?

好きなことができている満足感の方が強くて、はじめてのことも楽しく吸収できていたように思います。ただ、自分では素晴らしいと思っているものを、通りすがりのお客様に伝えるのはなかなか難しかったですね。その歯がゆさを克服するために、オーガニックコスメの勉強を重ねたり、接客方法を工夫したことが知らず知らずのうちにマーケティングにつながったんだと思います。

――その努力は報われたのですか?

当時、オーガニックコスメはまだまだマイナーで、大きな化粧品業界の中ではすごく小さなマーケットでした。そこで、ものがいいだけでは売れないんだということをひしひしと感じていたんですよね。販売するためのノウハウを身に着けるためには、まずは化粧品業界全体を知るべきだと考え、こんどはOEM会社に転職しました。

OEM会社では、原料や容器の会社の方と接しながら、生産から消費までの一連の流れ、売れる化粧品とはどんなものかを肌で感じとりながら働いた2年間でした。また、他社の商品を作るだけではなく、OEM会社発信の化粧品を生み出す企画担当として、年間100万個以上のヒット商品を生み出すことができたんです。

――年間100万個!? どうしてそのようなヒット商品を生み出すことができたのですか?

前述のインストラクター時代の勉強や工夫でマーケティングができていたこと、それ以前の学生時代からの化粧品の知識の蓄積、あとはわたしの化粧品愛なのかなと思います。もともと美容オタクだったので、本屋にある美容雑誌を全部買いこんでは、暗唱できるほど読みこんでいました。それで、化粧品の表現方法や流行りがなんとなく頭に入っていたんですよね。それから独学でしたが、専門書を読んで肌の仕組みを理解できていたのも大きかったと思います。

ドイツNo.1、2オーガニックコスメの販路拡大で販売会社社長に就任

――次の転職が、二大転機のひとつになったそうですね。

OEM会社では充実した日々を過ごしていましたが、どこかでオーガニック化粧品に戻りたいという気持ちがあったんですよね。そんな折、コンサルティング会社のオーガニック化粧品の立ち上げ要員としてオファーがあり、これはチャンスかなと思って転職しました。

――そこではどんな仕事をされていたのですか。

アメリカのドクターズコスメの日本導入を手がけ、のちにドイツNo.1、No.2のオーガニックコスメの輸入立ち上げを行いました。

――ドイツで人気のオーガニックコスメは、日本でもすぐに受け入れてもらえたのでしょうか。

そう簡単ではありませんでした。それまでOEM会社で扱っていた商品とは違って、すでにでき上っているブランドですし、日本とドイツの生活習慣の違いなどからすぐに受け入れてもらうのは難しい面も多々ありました。

百貨店の担当者にとっては、肌によいかではなく、売れるかどうかがポイント。そのために、ドイツではNo.1,No.2のすばらしいブランドであることと、ハリウッドでも人気があるから日本でも必ず成功することを熱意をもって伝えました。そうすることで徐々に販路を広げ、百貨店の売上も上がっていったんですよね

販路の開拓が認められ、グループ企業の販売会社社長に就任。コンサルティング会社の社長を敬愛していたので、ずっとここでもいいかなと思っていたのですが、会社の経営が傾き、倒産…。でも、企業のNo.2として約10年間、その会社の成長から傾き、倒産するまでを体験できたことが、のちに独立起業するための大きな刺激になりました。

後編では、自身のブランドROSES DE BIOの原材料である赤バラ「さ姫」に出会うまでのお話、ブランドを構築する上で大事にしていることなどをお伺いします。

取材・文/永瀬紀子

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