カット技術を追求し、「明確な武器がない」というコンプレックスを払拭【Hank. 代表 堀江昌樹さん】#1
2024年の春、22年間在籍したサロンから独立して「Hank.(ハンク)」のオーナーとなった堀江昌樹さん。美容師としての経歴は華々しく、長年に渡り美容業界誌をはじめさまざまな媒体で技術やトレンドを発信。コンテストや国内外のセミナー、ヘアショーなどマルチに活躍を続けてきました。
前編では、堀江さんが美容師を志したきっかけや美容学校時代に取り組んだこと、長年勤めたapishでの経験などを中心にお聞きしました。
お話を伺ったのは…
Hank. 代表 堀江昌樹さん
美容専門学校を卒業後、2002年にapish(アピッシュ)入社。25歳でスタイリストデビューし、28歳の時にapish jeno(アピッシュ ジェノ)の店長に就任。全店統括のクリエイティブディレクターを経て、2017年2月に自身が代表を務めるJENOをオープン。巧みなカット技術を武器に、サロンワークのほか各種メディアのヘアスタイル撮影にも数多く携わる。JHA、THAなど有名コンテストでの受賞歴も多数。apishを退社し、2024年4月に新店Hank.をオープン。カット技術や撮影ノウハウなどを学べるオンラインサロン『ホーリーのオシャレカット塾!』も好評。
HORIE’S PROFILE
- お名前
- 堀江昌樹
- 出身地
- 滋賀県
- 出身学校
- ル・トーア東亜美容学校
- 憧れの人
- 三浦和良さん
- プライベートの過ごし方
- 時間があれば、サウナに行っています(笑)
- 仕事道具へのこだわりがあれば
- ハサミのメンテナンスはかなりマメにしています!
基礎練習を積み重ねながら、アイデンティティを探った美容学校時代
――なぜ美容師という職業を選んだのですか。
もともとはプロサッカー選手になりたかったんですよ。小学生からサッカーを始めて、5年生の頃に開幕したJリーグの選手たちに憧れました。中学生の時は短期のサッカー留学でブラジルに行ったり、高校は滋賀のサッカー強豪校に入ってキャプテンを務めたり、ずっとサッカーひと筋。
でも、高校2年生くらいになると、将来プロとしてやっていけるのかどうか、自分の実力が何となく見えてくるじゃないですか。足の靭帯を切ってしまったことがあって、その時にスポーツで食べていくのはやっぱり難しいなとも思いました。それで、「一生続けられる仕事って何だろう」と考えるようになったんです。
ちょうどその頃はカリスマ美容師ブームで、テレビ番組の「シザーズリーグ」やACQUAの武道館ライブなど、美容師がメディアに出る機会が多かったと思います。それを見て、美容師ってかっこいいなという気持ちが芽生えました。
――美容専門学校では、どのようなことに取り組みましたか。
絶対に学校で結果を出したかったので、まずは「オールパーパス」を必死に練習しました。オールパーパスが正確にできる人はカットもうまくなるし、美容師として成功するというような教えがあったからです。高校まではサッカーで足しか使っていなかったので(笑)、自分は手先が器用だと思っていなかったし、人よりたくさん練習しないとダメだと思いました。授業が終わったら家に帰って練習して、朝起きたら練習して、学校で学んで、また練習して…。練習量なら学校で一番と言えるくらい、やりました。
僕が通っていた学校は当時、入学から半年間の成績が優秀だった子が、2学期以降は特別クラスに入れるシステムでした。特別クラスはヘアショーなどを経験できる特典があったので、そこに入るのは僕にとってすごく大事なことだったんですね。
――練習の結果はすぐに出たのでしょうか。
初めての学内コンテストでは賞にかすりもせず、本当に悔しくて、ひたすら練習を続けました。次は3位入賞でしたが、優勝できなかったのでまた悔しい思いをして。大阪のすべての美容専門学校が集まる大きな大会で1位を獲れた時に、やれば結果が出ると実感できました。
――スポーツの経験があるからか、悔しさをバネに努力をするというのが身についているように感じます。
そうですね。ダメだった時にメンタル面でどう切り替えるか、思考をどうポジティブに持っていくかというのは、サッカーを通じて学びました。
ただ、結果を出したい一心でオールパーパスを練習していた時に、「堀江って真面目だよね」と言われたことがあったんですね。それが自分の中ですごく引っかかって、いろいろと考えました。学校の授業では、先生に言われたことを一から十までできれば評価される。でも美容師になったら、人から言われたことができるだけでは足りなくて、アイデンティティを持って仕事をしないと生き残れない。そう思ってからは、学校でやるべきことはやりながらも、自分にしかできないことを探すようになりました。
――例えばどのようなことを?
絵を描くのが好きだったので抽象画や色彩画を描いたり、映画を見たり。美容以外のアートやカルチャーにたくさん触れるように意識しました。
デビュー直後から売上を伸ばし、撮影のチャンスをつかみ取る
――美容学校卒業後は、apishに入社されたんですよね。
最初はアーティスティックなモード系サロンに就職したいと思っていましたが、いろいろ調べたり見学に行ったりするうちに、親身になってちゃんと教育してくれるサロンにも魅力を感じるようになりました。apishに見学に行った時に僕を担当してくれた方がすごくいい方で、「ここがいいかも!」と思いましたね。
僕はエッジの効いたものやかっこいい系が好きだったので、コンサバでガーリーなイメージが強かった当時のapishでは異色な存在だったと思います。少し違うエッセンスでおもしろそうという理由で採用されたのかも(笑)。
――どんなアシスタント時代でしたか。
1年目は、絵を描くという特技を活かして、坂巻さん(apish創業者の坂巻哲也さん)の業界誌撮影の背景デザインや空間作りを担当させてもらいました。営業中に東急ハンズや公園に行き、イメージソースや背景素材を探すこともありました。サロンワークにはあまり出ていなかった気がします。
――アシスタントとしてはかなり珍しいパターンですね。
同期が8人いたのでサロンワークの方は足りていたんですよね(笑)。当時、外部撮影が本当に多かったので、人とはかなり違う体験ができたと思います。その役割を後輩にバトンタッチした時はちょっと悔しい気持ちもありましたが、これからスタイリストになるうえで技術をしっかり身につけないと未来がないと思い、以降はサロンワークに集中しました。
アシスタント時代はめちゃくちゃよく怒られていたんですよ。「一番怒られるけど一番技術ができる」ようになりたくて、朝練と夜練を重ね、結果的には周りより早めにスタイリストデビューできました。
――デビューしてからは、どんな目標やこだわりを持っていましたか。
雑誌などで撮影ができる美容師になることがひとつの目標でした。撮影の仕事をもらうには何をすべきか考えた時に、やっぱり売上を上げないと認めてもらえないなと。スタイリストデビュー初月は80万ほどで、そこから一度も落とさずに半年以内に100万を達成しました。その結果、指名なしで依頼が来た撮影の仕事を少しずつ振ってもらえるようになりました。
その時に在籍していたapish Ritaはメンズの仕事が多かったので、レディースのヘアスタイルも積極的に作品撮りをして、ヘアカタログや女性誌、業界誌の編集部に電話をかけて作品を見せに行きました。25〜28歳くらいの頃はとにかくいろんな雑誌に売り込みをしましたね。
――売上を上げるためには何をされたんですか。
アナログなやり方ですけど、友達を作って地道にお客様を増やしました。まだお店の名刺を持っていないアシスタントの頃から、自分でオリジナル名刺を作っていろいろなところで配ったり。当時はインスタグラムもなく、ソーシャルネットワークといえばmixiくらいでしたが、そこでも集客していました。だからあの頃は携帯電話の通信料がヤバかった(笑)。
自分の武器って何!?本気で悩んだ末に行き着いたのは…
――apish jenoでは店長を務められていましたね。当時の印象的なできごとがあれば教えてください。
3店舗目を出すことになった時、店長をやらせてほしいと立候補したんです。apish jenoがオープンしてから、業界誌の仕事やクリエイティブな活動がどんどん増えて、チャンスが広がっていきました。31歳の時に初めて、JHA(ジャパン・ヘア・ドレッシング・アワーズ)の新人賞にノミネートされたことも印象に残っています。
――一般誌と業界誌、それぞれの撮影で意識していたことは何でしょうか。
一般誌はやはり、一般のお客様に支持されるかどうかと、集客につながるかというベクトルで撮影をしていたと思います。業界誌の方は自分が好きなことややりたいことを発信できますが、どういうものが賞に入りやすいかということも考えていました。
共通して大事にしていたのは、ひとつひとつの媒体が僕に何を求めているのかを汲み取ること。期待以上のものを返したいという思いも大きかったです。
――ご自身の一番得意な技術というのは何でしたか。
カラーやパーマ、ヘアアイロンの巻き方など多彩な企画に呼んでいただきましたが、当時はまだ、一番得意と言えるものはなかったかもしれません。どれもそつなくこなせるけど、明確な武器がない。「特化型美容師」がフィーチャーされつつある時代でもあったので、強みのない美容師だなというのがコンプレックスで、悩んでいる時期でもありました。
――そのコンプレックスをどのように解消したのですか。
徐々に、カットを強みにしたいと思うようになりました。やはりカットがうまくないとお客様のリピートがないだろうし、パーマをかけるにしても大前提としてカットが決まらないとダメですし。スタイリングでごまかさず、カットしただけで可愛いかどうかが、いつしか自分の中のポイントになりました。
カット技術を磨くのはもちろんですが、イメージ戦略も立てました。撮影の際はショートやボブのモデルをチョイスして、「短めヘアを担当する美容師」「カットが得意な美容師」という印象をつけていったんです。
――「カットが武器」と自他ともに認められるようになったのはいつですか。
JENOをオープンした頃にいただいた、雑誌『PREPPY』の仕事がきっかけでした。ウィッグを使って丁寧にカットテクニックを解説するページと、その技術をモデルさんに落とし込んだヘアデザインを見せるページ、全体で20ページ以上ある大きな企画でした。めちゃくちゃ準備して撮影に臨み、読者投票で1位を獲れたんです。それがやはり自信につながりましたし、「自分はカットが強み」と言い聞かせながらさらに練習するようになりました。
一生続けられる職業として美容師を選んだ堀江さん。持ち前の負けず嫌い精神と戦略的思考、そして結果を出すための絶え間ない努力でチャンスをつかんできたように感じます。後編では、独立を考えたきっかけやHank.に込めた思い、自分の目標を実現するための秘訣などをお聞きします。
撮影/高嶋佳代
取材・文/井上菜々子