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コラム・特集 2016-08-24

今こそ『ヘアスタイルの歴史』について紐とこう! ?飛鳥〜奈良時代編?

パーマやカラー、ショートにロング。現在ではいろいろなテイストが楽しめるヘアスタイルですが、昔の人々は、いったいどんな髪型をして生活していたのでしょう。当時の流行は? ヘアアレンジの種類は? カット法やパーマ液などの美容技術の始まりはいつ? 今日にいたるまでのヘアスタイルの軌跡を一緒に探ってみませんか。

十七条の憲法・冠位十二階の制定、遣隋使として小野妹子を派遣するなど、政治や文化が大きく変化した飛鳥時代。また、飛鳥時代に中国から伝わった仏教がより広く波及した奈良時代。そんな政治的、文化的な背景の変化から、人々のファッションやヘアスタイルにもずいぶんと変容が見られました。今回はそんな“飛鳥〜奈良時代”に焦点をあて、ヘアスタイルの歴史を詳しく見ていきたいと思います。

飛鳥〜奈良時代とは?

“飛鳥時代”とは6世紀から7世紀にかけて奈良県高市郡の明日香村を都とした推古朝を中心とした時代のこと。文化史の上では仏教伝来から中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺した大化の改新までを指します。また“奈良時代”は元明天皇によって奈良県奈良市・大和郡山市付近に遷都してから(平城京)、桓武天皇の平安京への遷都までの84年間のこと。これらの時代はとくに法制度が充実し、さまざまな制度や政治基盤が制定される一方で、シルクロードを通って伝来したギリシャ・インド・中国文化の影響を色濃く受けた時期でもありました。

日本の洗髪の歴史が始めて確認されたのもこの飛鳥〜奈良時代。それまでは宗教儀式としての意味合いで髪を濡らすことはあっても、衛生的な観念で髪の毛を洗うという発想がなかったと言われています。文献によれば6世紀に仏教が伝来したことを期に、仏に仕える者の心身を清める沐浴のため寺院に浴堂が設けられ、そこで始めて湯や水を使った洗髪が始まったとか。なお、このときシャンプー代わりに使われていたのが植物の実や皮を煮出したものだったそう。ニオイは? どの程度きれいに洗えていたのか? と、謎はつきませんが、現代の和漢植物エキスに通ずるところもありそうですね。

そんな飛鳥〜奈良時代のヘアスタイル事情、まずは男性の髪型から見ていきましょう。

飛鳥〜奈良時代とは?

飛鳥〜奈良時代の男性の髪型はというと、古墳時代に位の高い人たちが結っていた「美豆良(みずら)」に代わり「髻(もとどり)」という髪型が登場します。弥生〜古墳時代編でご紹介した「美豆良」は、長い髪を耳の脇で折ってひょうたん型に束ねるというもので、なかなか手間のかかる髪型でした。そこでもう少し楽に作れる「髻」が普及したわけですが、意外にもこの流行の背景には政治的要素が深く絡んでいたのです。詳しくみていきましょう。

髻と冠位十二階

今こそ「ヘアスタイルの歴史」を紐とこう!
官位十二階の色別役職

飛鳥時代の中心人物として有名な聖徳太子の髪型もこの「髻(もとどり)」。とはいえ、冠の下にあるので「冠下の髻(かんむりのしたのもとどり)」と呼ばれています。このように「髻」という髪型は、じつは冠を支える土台のような役割を担うものでした。

当時の先進国である中国から渡来した冠は、推古天皇の下で政治を取り仕切った聖徳太子の政策で大きな役割を果たします。聖徳太子が作った“冠位十二階”というその法律は、冠の色により政治の役職を12階級に分けたもの。役職が可視化されたこの制度により、都の役人たちの装いには冠が欠かせないものとなり、礼装の際には冠の着用が求められました。このため冠をかぶるのに適した「髻」が広く普及したのです。

今こそ「ヘアスタイルの歴史」を紐とこう!
冠下の髻(かんむりのしたのもとどり)

「髻」の作り方は、長く伸ばした髪の毛を頭の上で結って、絹糸でしっかりと巻くといった簡単な工程。これに冠をかぶせ、冠の外から髷の中心に笄という、かんざしのようなものを挿してずれないように固定します。ちなみに、「髻」のみでは正装と認められず、冠をつけてはじめて装いの完成とされました。人前で「髻」をさらすことは、裸をさらすことに匹敵するくらい恥なこと。よって、当時の肖像画でこの髪型を描いた人物資料は極端に少ないのだそうです。

冠位十二階

603年、句麗や百済の冠位制度を参考にして聖徳太子が作った日本で初めての制度で、冠のカラーに応じて十二階級に位を分けたもの。生まれ持った身分や出生にかかわらず、個人の能力や功労によって地位が与えられたた。ちなみに一番位が高い色は紫色。次いで位の高い方から順に、青→赤→黄→白→黒の順に色分けされ、各色ごとに濃淡をつけた12色に分類された。なお、天武天皇の時代になると冠位は48段階にまで増えている。

女性の髪型

今こそ「ヘアスタイルの歴史」を紐とこう!

飛鳥〜奈良時代の女性は、呪術や生活のためではなく、はじめて“おしゃれ”としてのメイクアップをはじめた、いわばメイクアップの先駆者たちでもありました。また、当時都に住んで宮廷に仕えた女性たちはこぞって中国をはじめとする先進国の最新ファッションを取り入れ、文化的ステイタスとしていたそうです。なんだかマリーアントワネット時代のフランス王宮のようですね。流行を追い、好奇心を持っておしゃれを楽しむ女性たちの心は、いつどの場所においても同じだったようです。

中国文化の流行

このような時代背景のなか、ヘアスタイルにおいても当然のことながら先進国の影響が見られました。当時、都の女性たちの間で流行したのは、中国の宮廷から伝来した「頭上一髻」という髪型です。

今こそ「ヘアスタイルの歴史」を紐とこう!
頭上一髻(左)と頭上ニ髻(右)

「ずじょういっきつ」(もしくは、ずじょういっけい)と読むこの髪型は、文字の通り、頭の頂上で髪の毛を一つに結わえたもので、はじめは男子の髪型だったそうです。たしかに当時の仏像を見ると男女問わずこの髪型をしているものが多く見受けられます。ちなみに髻の大きさは男女差や身分の差によって違いがあったとか。また、頭上に2つの輪っかを結った頭上ニ髻「ずじょうにきつ」(もしくは、ずじょうにけい)もあわせて流行していました。

このように頭の上で髪を結い、顔には鉛をお酢で蒸して作ったおしろいを塗り、唇に真っ赤な紅を差し、額中央に“花鈿”(かでん)、口元に“よう鈿”(ようでん)と呼ばれるカラフルな花や星の模様を描けば、当時の最先端スタイルが完成。どことなくオリエンタルで、エキゾチックな魅力をまとったこのヘアメイク、今見ても可愛らしいと思いませんか?

以上、飛鳥〜奈良時代にかけての髪型の変化を見てきました。古代倭国と比べると外国との交流がさかんになったせいか、随分と文化的なスタイルになったように感じます。次回はいよいよ日本文化の神髄、平安〜鎌倉時代へと進みます。日本のヘアスタイルのルーツを追うことで、日本人ならではの髪型の魅力を再発見してみてはいかがでしょう。

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